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1992年12月27日より2週間、私は秘境パタゴニアへの旅に出た。
ここは日本からみると地球の反対側で最も遠く、延々八千キロ続くアンデス山脈の南端に位置し、アルゼンチンとチリの2カ国にまたがっていて、中央高地から東は太古からの大氷河を抱いた山岳地帯と湖沼地帯、西の大西洋側は広漠たる平原である。
パタゴニアの広さは日本の約3倍の110万km、南極に近く一年中強風にさらされ気象条件が極めて厳しいところで、旅行シーズンは11月から3月までの夏の期間に限られている。

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●ブルーに輝く氷河
成田を飛び発って北米のダラス、マイアミ、そして南米アルゼンチンのブエノスアイレスを経由し、さらにわが国の8倍広いこの国の南端の基地の町リオ・ガジェゴスへ飛ぶ。空港に降りると氷雨と17メートルの強風で、帽子を飛ばされた人が何人もいた。飛行機が2時間遅れ、そのトラブルからここを発つバスまでが問題を起し、早くも旅の前途が心配になった。
最初の訪問地カラファテはここからバスで5時間、パンパと呼ばれる単調な草原をチリ側へ走って、夜10時ごろに漸く到着した。南極に近いこのあたりは白夜のため、日没は10時頃で外は11時過ぎまで明るかった。
翌日は幸運にも快晴である。今回の旅のハイライトであるペリト・モレノの氷河を見にゆく日とあって朝から心が弾む。昨日と同じようなパンパの中の埃のたつ道をバスで2時間走って氷河国立公園へ行くと、雪山が近づきやがて氷河が目の前に迫ってきた。高さ数十メートル、幅数百メートルの青白く光る氷壁が屹立していて、時おり雷鳴のような轟音をあげてマリンブルーの氷河湖に崩落する。太古から今日そして未来へと、一時も休むことなく続いているこのダイナミックな自然現象に深く感動させられる。観光船で氷壁の真下から見上げると、崩壊の瞬間は恐怖で足がすくむ。また、ヘリコプターで上空からも観察したが広大な氷河には幾筋ものクレバスがあり、そこはエメラルド色の水溜りとなっている。
このあと氷河の見下ろせる丘の遊歩道を巡ってゆっくり観察したが、ここがパタゴニアかと思われるほどの上天気で紫外線が非常に強く、サングラスや帽子の用意の無かった人は1時間もすると顔が真っ赤に焼けた。丘の草むらには赤・白・黄色・紫などパタゴニア独特の花が、極地の短い夏を惜しむかのように美しく咲き競っている。
町の名前になっているカラファテは花が終わり、赤い実が光っている。
この氷河国立公園には、高さ100m、幅5km、長さ80kmにもおよぶウブサラ氷河を始め大小百十もの氷河がある。しかし、そのほとんどが人を寄せつけない。

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ペリト・モレノ氷河を背にする筆者


パイネ国立公園の雪山
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●異国で迎える正月
次の大晦日は移動日である。朝8時この人口2,500人のカファテの町を後にして、単調で荒涼とした乾燥大地をバスはひた走る。3万年前に氷河が地表をそがして下ったのでこのような丘陵地帯となったとか、針金のように細くとがった葉の植物ばかりである。牧場となっているが、砂漠化を防ぐため1ヘクタール1頭の割合の牛だけに制限しているが、それでもこの辺りに十数万頭いるとか、その広さに驚く。羊は草の根元まで食べるので不向きのようである。
昼少し前にコイレに着く。ここは草原の中の一軒家で、トルコの砂漠の街道に昔からあるキャラバンサライのように、旅行者が宿泊や休憩をするところである。ここはチリ国境に近く日本との時差12時間で、ここの正午が大晦日の年越しの時刻とあって、添乗員の二村さんが日本から持ってきた即席ラーメンとここの缶ビールで一行12名は乾杯した。空には真夏の太陽が燦燦と輝いている。このとき26才の現地ガイドのヤンコ君が漢字の日本名を付けてほしいと言い出したので、皆で協議の結果「弥雲呼」と命名し名札に書いてあげると大喜びで、一同大笑いになった。同君はスポーツは何でもやるが、アンデス山系の高い山はほとんど登ったとか。アルピニストならぬアンデーニストである。
チリ国境ゲートは草原の中に、小さな小屋が一軒建っているだけの簡単なものである。あいにく昼休み中とあって2時間待たされた。2日間付き合ってくれたガイドとドライバーとはここで別れたが、2人はいつまでも手を振って帰っていった。

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マゼランの銅像 |
●大自然に囲まれて
チリへ入国すると、かなり大きいバスが待っていた。ドライバーはドイモ氏、ガイドのパトリシア嬢は英語教師で、夏休みの2ヶ月だけのバイトだと言う。後で26才の独身とわかる。
国境から30分ぐらい山を下ったカステージョ村(と言っても、2〜3軒しか家の無い集落)の民宿のような小さいホテルに落ち着く。この辺りは湿原で緑色の牧草に覆われていて、牛や羊が群れをなしていた。また周囲一面ルービンという花がピンクや紫色に咲き乱れていて、何ともいえない風情がある。また芳ばしい匂いが漂っている。真夏の南半球へ来て元旦の宿がこのような所で有難いと思った。二村さんの通訳でパトリシア嬢に、私が1991年に行ったイースター島や首都のサンチャゴの話をすると、チリ人の彼女は大変喜んで食事の席も隣り合わすことが多くなった。
翌日はチリの誇るパイネ国立公園へ。ホテルを出て2時間、日差しの強い草原をバスで登ってゆく。草むらの中にバンドリアス(トキの一種の美しい野鳥)、ダーウインレア(ダチョウに似た飛べない鳥)の親子連れ、グァナコ(ラクダ科)の群れなど、パタゴニア特有の鳥類、動物に出会う。そして澄み切った空にコンドルが舞うのを見た。山が高くなるにつれてコバルトブルーの湖があちこちに見られ、背後にはパイネタワーをはじめ3,000m級の垂直に切り立つ山々が聳えている。山と氷河と湖を巡る250kmに及ぶトレッキングコースは、パタゴニアならではの大自然の圧巻と言えよう。グレイ氷河が真正面に見える湖畔で引き返し、名残を惜しみつつパイネを後にしてカステージョ村のホテルに戻った。
夕食は美しいルーピンの花に囲まれたホテルの庭でバーベキューを楽しんだ。1.5mもある鉄の串に骨付きの大きい牛肉をさして、2時間半かけて焚き火で焼く豪華なもので、隣席の10名のイタリア人のグループやホテルの従業員、家族も一緒になってビールやワインを飲み、歌って賑やかなパタゴニアの新年会となった。

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カシテージョ村のホテル
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●「南の果て」で…
翌朝、思い出のホテルを後にして山を下り、太平洋に面する港町プエルト・ナターレスへ行く。人口1万7千人のこの町は、常時強風にさらされているため高い建物は殆どなく、海岸には難破船の放置されているのが多くみられる。バスはここから南へ真っ直ぐ向かうが、広漠とした平坦な草原がつづく。片道だけしか舗装してない道路を3時間あまり走って、この間にすれ違った車はたった5台だけである。途中の湖沼で野生のフラミンゴを写真に撮ったり、牧場のレストランで昼食をとったりして、やがて世界最南端の都市プンタ・アレーナスに着く。マゼラン海峡に面したこの港町は、パナマ運河が開通する(1914年)までは海上交通の要所として、また羊毛取引の中心として栄えた所で、現在の人口は11万人、南極への基地である港には多くの船がひしめいている。
町の中心地にある広場には、1520年この海峡を発見したマゼランの像がたっている。大虐殺によって滅ぼされた原住民の悲劇を伝える博物館などがこの町の見どころである。
この日は土曜日なので町は静かである。海岸へ出て小石を(私はいつも旅先で小石を拾って持ち帰る)拾っていると、海は荒れはじめ雨が降り出した。ホテルでの夕食に南極蟹を特別に出してもらったが、本場の味は格別だった。故国から1万7千キロ、限りなく遠くへ来たとの思いも手伝ったのか、この夜私はなかなか寝付かれなかった。
明けて1月3日、雨の降るマゼラン海峡を20人乗りの小舟で、マグダリー島へペンギンを見に向かう。
荒波に翻弄されること2時間半、上陸のため島の直前で6人ずつゴムボートに乗り移ったものの、エンジントラブルのため空しく引き返した。パトリシアともう一人の女性がひどい船酔いで憔悴しきって帰るなど、恐怖と寒さで震え上がった半日だった。1日だけの滞在だったが「南の果て」プンタ・アレーナスの印象は深い。3日間一緒で親しくなったガイドとドライバーとは空港で別れ、午後7時の便で次の訪問地プエルト・モンヘ向かう。
(前編おわり)
(筆者 東京タイル㈱取締役会長
大久保第2支部相談役
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グァナコの群れと筆者
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※今回ご紹介したパタゴニアは世界遺産ではありません。
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