●〝神秘と謎の島〟イースター島へ
絶海の孤島で幾百年の風雨にさらされながら、悲運の歴史を見てきたモアイ像、あれだけ大きな石造の群れが何のために誰によって、どんな方法で造られたのか。〝神秘と謎の島〟イースター島に長年憧れてきた私は、この夏ようやくその願いをかなえることができた。
成田から、ダラス・マイアミ・ブエノスアイレスを経てチリのサンチャゴヘ着き、翌日太平洋上3、800kmを飛んでイースター島へ向かい、8月17日午後2時、強風下のマタベリ空港に着いた。30数時間かかつて飛行機を何回も乗り継いで、この辺境の地を踏んだ時の感動は終生忘れることはないであろう。
出迎えてくれた現地のガイドは、チリ大学の先生で島の岩絵を長年研究してきたドイツ人のクリスチャン・ウォルター氏である。旅装を解く間もなく、島内で最も大きい15人乗りのマイクロバスで近くの遺跡を見にゆく。
●初対面は、
海を背に立つ5体のモアイだった。
最初に訪ねたのは、海を背に5体のモアイの立っているアフ・タハイの儀式村である。モアイはすべて「アフ」と呼ばれる石の祭壇の上に置かれている。少し離れて頭部の欠けたアフ・バイウリと赤道色の帽子を冠ったアフ・コテ・クリというモアイが1体ずつ立っている。
西の空には太陽が傾きかけ、逆光に向かって初めてモアイに対面した時、私はたとえようのない敬虔な気持ちになった。アフの前には低い草の生えた広場があり、ボート型に礎石を置いた古い住居の跡や、小石を積み重ねただけの鶏小屋の跡もあって、ここが古くから村の生活の中心だったことがわかる。アフ・タハイの裏手にイースター島博物館がある。ここには島全土から出土した遺物や収集品をはじめ、島の暮らしを説明したパネル・写真などが判りやすく展示されている。ここでの目玉は文字通り「モアイの目」(左右35センチ、天地15センチ)で、かって大阪の万博にモアイ1体と共に出品されたものである。また世界でも希少な「コハウ・ロンゴ・ロンゴ」といわれる像形文字の刻まれた木簡や、肋骨の突き出た木彫りの男性像モアイカヴァカヴァなど、奇妙なものが陳列されている。
この博物館は1986年、日本のトッパン印刷の援助によって完成したそうである。
●イースター文明、
創造と衰退の歴史を刻む遺跡
島の歴史は悲運の一語につきよう。最初の居住者は、4、5世紀ごろ漂着したポリネシア人らしい。
以来1、300年間ほとんど孤立状態にありながら、島の各地に残した膨大な数の巨大モアイ像や、岩絵そしてコハウ・ロンゴ・ロンゴのような独特の文字など極めて進んだイースター文明を創造した。
その後、部族間の内戦などでモアイが次々に倒されたり、人口増加による資源の枯渇がおきたりして島は衰退の気運にあった。そして1722年の復活祭の日曜日オランダ人によって島は発見され、この日に因んで「イースター島」と名付けられた。この西洋世界との出会いの後、百数十年の間にさまざまの外国船が何回もやって来て、そのたびに多くの島民は奴隷として連れ去られたり、略奪、放火といった残虐行為が繰り返された。又天然痘や結核を持ち込まれたりしたため、免疫の無い原住民はバタバタと倒れ、最盛期には5000とも1万人とも推定された島の人口は、ついに100人まで減少してしまった。この間島固有の宗教や秘儀を知る長老、司祭が姿を消し、モアイの謎を解く鍵もイースター島の歴史もことごとく分断されてしまったのである。
このような悲惨な島の歴史に思いを馳せながら遺跡を巡り、その末裔の人達に接するたびに、不幸な運命を背負ってきた謎の島への愛着が増していく。島の現在の人口は2300人という。その夜浜に出て南十字星のきらめく天空を何時までも眺め、悠久の宇宙を思い1万5000kmの彼方の日本への郷愁で胸がいっぱいになった。
●取り残されたモアイ390体
製造基地跡ラノ・ララク
次の日も天気に恵まれ、ガイド氏の案内でバンガロア村の朝市に立ち寄った後、バイフの海岸へ出る。下向きに倒されている何体ものモアイ。胴体と頭とが離れ離れになっていて、その隙間にはタンポポが咲き、浜風になびいている様は何ともいえず可憐である。
次はイースター島遺跡のハイライトともいわれるラノ・ララクへ向かう。ここはモアイの製造基地跡である。遠くから岩山の裾に目を向けるとポツンポツンと豆粒のようにモアイが見える。伊豆大島ぐらいのこの島の各地に点在するモアイはここから切り出されとか。現在ラノ・ララクには390体のモアイが取り残されている。あるものは倒れ、あるものは埋まり又造りかけのまま虚しく宙を見つめている。最大のものは体長21、6m、重さ約344トンと推定されている。私は一つでも多くのモアイを見ようと歩きまわり、惹かれる思いを残したままラノ・ララクを後にした。
●先遣の〝使者〟を祀った
アキビ「7体のモアイ」
このあと荒涼とした高地の悪路を約40分走ってアナケナを訪ねる。空は青く澄み、白い雲が浮かび紺碧の海と白い砂浜があって、まばゆいばかり美しい海岸である。
ここは土地の家族連れがよくピクニックに来るところだが、売店もレストランも無い。伝説の王ホツ・マツアの一行が上陸したところと言われ、海に向かって7体のキリットした顔つきのモアイが立ち、その後方にポツンとホツ・アツマ王の像が立っている。
海岸からはなれ島の中央高地へ登っていくと、荒涼とした草原が広がる。ところどころに放牧された馬や牛の群れがのんびりと草をはみ、丘の向こうからは山焼きの煙が立ち上がっている。その牧歌的で素朴な風景の中にひっそりと佇むのが、有名なアフ・アキビの7体のモアイである。ホツ・マツア王が賢者ハウマカの夢に見たという新たな大地が、本当に存在するのか否かを確かめるために7人の使者(息子)を出して調べさせ、一大決心の後民を引き連れ長い航海の末に上陸、この島の歴史は始まったといわれている。
その使者を祀ったのがこのモアイで、彼らは沈黙して語らないが、愁いをおびた眼差しを遠い故郷の西に向けて立っている。この雄大な原野のロケーションに私はただ感嘆し、立ちつくすばかりであった。
●調理に8時間、
野趣あふれる名物料理「クラント」
帰りはイースター島名物の野生の果物グァバが、豊かに実っている草原を下ってバガロア村の土産物店へ寄る。木彫りの品がずらりと並べてあり、人なつこい笑顔が私達を店内に招き入れる。私は数個のモアイ像と、モアイカバァカバァ像、木彫りの杖などを島の記念として買い求めた。
この日の夜の食卓は名物料理の「クラント」である。地面を浅く掘り、焼き石を並べてバナナの葉を敷き詰め、肉・魚・野菜などを包んで蒸し焼きにしたもので島では誕生日やイースターの日、祭りの時など特別の日だけ作る豪華な料理。専門の職人を呼んで朝の9時から始めて、夕方の5時ごろにやっと出来上がるという気の長いものである。肉の脂分が落ちてパサつき気味であるものの、野趣あふれる味でチリ産のワインとビールも口にあって、楽しい夜であった。
●大きく精巧な石組み
アフ・ビナブの遺跡
3日目は、空港の滑走路沿いの道を通って島の南側にあるアフ・ビナブの遺跡を訪れる。ここにあるアフの石組は大きくて精巧である。南米アンデスのインカの遺跡と同様に隙間の無い組み方で、研究者の間でペルーのティワナコあたりからの渡来人が造ったものだと言う説もある。私も一昨年アンデスへ行って見てきたのでうなずけたが、一方あの時代に南米大陸から4、000kmも離れたこの島まで渡ってくるのに、どのような手段があったのかと疑問を持つ学説もある。
●魅惑的な〝岩絵彫刻〟
素晴らしい景観のオロンゴ
この後イースター島で最も景観の素晴らしいと言われるオロンゴへ行く。死火山ラノ・カオへ上る道々には、南国特有の原色の花が咲き乱れ、見渡す風景も素晴らしい。眼下には何ものにも遮られない紺碧の海が広がっていて、240mの断崖の上は海風が激しい。
沖の島に棲む海鳥の最初の卵を採ることを競い合い、勝った部族の長に鳥人の位を授け、次の1年間政治・宗教の実権が掌握できると決められた儀式を行った場所である。
平たい小石を積み重ね、人がやっと潜って入れるくらいの穴があいている先住民の住居跡が、現在53戸残っていてこの辺りの一面の岩には、約500の鳥人やマケマケ神などの魅惑的な絵が彫刻してある。
この岩面レリーフもモアイと同様にイースター島のもう一つのナゾと言われ、島の大きな文化遺産である。ガイドのウォルター氏は岩絵の専門家だけに、吹き飛ばされそうな強風の中にもかかわらず、目を輝かせながら細かく説明をしてくれた。
目を転じてラノ・カオの火口湖をはるかに見下ろすと、トトラ葦の生えているところと水面だけのところがほどよく混じりあって、あじさい色に輝き周囲の摺り鉢状の斜面は異なる花や草の色に染まっている。
この恐ろしいほど神秘的で壮大な、360度のパノラマのオロンゴ岬の断崖に立った私は、地の果てに位置するこの孤島に、再び来る日はないだろうとの感傷で、胸に込み上げるものがあった。
(東京タイル株式会社・会長)