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 高山忠直の上司であり和算の師でもあった「古川氏清」(1758〜1820)の屋敷は、文化13年に下谷和泉橋通三百五十坪(古川山城守拝領屋敷)から神田橋外千百二十坪余(小長谷新三郎拝領屋敷)に移されている。
 氏清の息子古川氏一(1783〜1837)も氏清から和算を学び、関流和田寧(1787〜1840)にも学んだ和算家である。通称: 新之丞。別名:謙。字:珺童。著書:「諸角書様図解」「額面論義」「算法弧矢弦解考」「珺童先生義解」等。
 氏一の屋敷は沿革圖書十一「牛込御門外より船河原橋迄」の「当時の形」(天保元年1830調)に「古川新之丞」として記載されている。現在の新宿区揚場町二−二十一付近【図1】。新宿区立津久戸小学校とJR飯田橋駅の間。大久保通り沿い。東衣裳店の辺りだ。氏一は父氏清の死後「至誠賛化流」の督学を務めた。
 至誠賛化流の門人等は淇澳集、続淇澳集、増続淇澳集という問題と答およびコメントを含む算題集を残している。文化五年(1808)から文政十一年(1828)までの約21年分。総勢158名による算題集だ。
 淇澳集は、四日市大学の小川束先生が書かれた「至誠賛化流と『起元解』について」『数理解析研究所講究録』1739(2010)で知った。当時の塾の実態について、学版と称される問題と答を書いた算額のようなものの運用、免許制度、奥義書の扱い等について分かり易く解説されている。
 此処に至誠賛化流の塾があったとする直接の史料は見つからないが、この地で門人達が算題を披露し批評することで切磋琢磨していたのだろうと思っている。
 ところで揚場町の「揚場」は飯田濠の荷揚げ場。飯田濠とは江戸城外堀の一部分を指す。神田川との合流点(現在の飯田橋交差点辺り)から牛込門までの範囲。沿革圖書では「神田川」と書かれている。1947年当時の航空写真をみると神楽河岸に何隻も船が見えるが、1970年頃暗渠とされ、現在は濠跡地に20階立ての高層ビル(飯田橋セントラルプラザ・ラムラ)が建てられている。
 この付近の船宿が描かれた団扇絵(歌川廣重:どんどんノ図 牛込揚場丁)が国会図書館で公開されている。「茗荷屋」という舟宿の看板と対岸の柳や松を描こうとしたせいか、明治期の写真や江戸後期の絵地図と比べて水路の幅が随分と狭く描かれている。夏目漱石の「硝子戸の中」にも、兄から聞いた話として「彼らは筑土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。」とある。浅草方面へ遊びに行くのに船を使っていたわけだ。津久戸町から神楽河岸に下る坂道は「軽子坂」。軽子は、籠子を担いだ荷揚げ人足のことだそうだ。遊びに出かける旦那衆や威勢のいい軽子達を尻目に、至誠賛化流の門人達はどんな表情で通っていたのだろう。

図1 古川新之丞(氏一)屋敷跡地(天保元年1830 調)