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 幸田親盈は関流中根元圭に師事し、『推積年日法術及類法』『天文大成』『白山暦解義』、『八線表解義術意』(享保十七年 刊)等を残した和算家である。親盈の門人には今井兼庭(本多利明の数学の師匠)・千葉歳胤(本多利明の天文暦学の師匠)ら後に著名となる和算家達がいた。親盈は通称孫右衛門・文之助・友之助(一説に友之進)、号子泉。法号 止居院慈潤叡学同聡居士。正徳二年(1712)二十一歳で家を継ぎ、小十人組頭、西丸切手御門番之頭などを勤めた(『寛政重修諸家譜』)。親盈の子信平も、算学者・歌学者として知られており田安家の勘定奉行まで勤めた人物である。
 第88回に書いた山路主住の旧居跡地(四谷笹寺門前)から東に100メートル程の位置(新宿区大京町1)に幸田友之助拝領屋敷があった。この場所は昭和51年から平成14年4月まで新宿区立四谷第二中学校グランド北西側辺だったが、2016年現在では介護老人保健施設マイウェイ四谷(東側付近)となっている。
 この位置と推定したのは、『沿革図書』文久二年(1862)「四谷忍町西側御先手組御大縄地辺右馬町通東側長安寺辺の部」に「野尻芳太郎」、「幸田元太郎」の名が隣接してあったことによる。なぜこの二家から推定できるのかと言うと、幸田の拝領屋敷360坪の内150坪を野尻に移したという記録があり、(「幸田友之助拝領屋敷四谷右京町三百六十坪之内百五十坪 小普請野尻太兵衛え」元文五年(1740)二月二十五日[相対替御書附書抜])更に別の文書(安政三年(1856)『諸向地面取調書』)にある「小普請 幸田元太郎 拝領屋敷 四谷右京町二百十坪地守附置、四番町曽根栄之助長屋借宅」という記載の坪数と幸田友之助拝領屋敷の坪数(360坪−150坪)と一致するからである。『諸向地面取調書』の幸田源太郎は親盈の孫(親曲:左京、源之助)もしくは曽孫と思われる。
 親盈もその子である信平も「友之助」の名で呼ばれた。(父子同名や同一人の複数呼称は、我々の感覚では紛らわしいが、当時は普通。)「相対替御書附書抜」の年号は元文五年(1740)二月二十五日と天保十年(1839)七月十日と100年近くの違いがあるが、肩書きがそれぞれ「小十人久松忠次郎組与頭」「小十人高林左兵衛組」となっているので、父親である親盈が小石川諏訪町の屋敷を拝領し息子の信平の代に四谷右京町の拝領屋敷(360坪)の一部(150坪)を相対替えで削減されたことが判る。削減された結果の坪数(210坪)が孫の親曲の代以降の記録『諸向地面取調書』に残されたのだろう。
 なお、尾張屋の嘉永三年(1850)切絵図にも笹寺の西に野尻と幸田の文字が見える。切絵図では幸田の屋敷よりも野尻の屋敷が大きく描かれているが、幸田の屋敷よりも野尻の屋敷の方が小さかったはずだ。
 ところで、親盈はこの当時の文化人達のあいだで流行っていた七弦琴の奏者でもあった。これについては次回述べる。

「四谷忍町西側御先手組御大縄地辺右馬町通東側長安寺辺の部」
『沿革図書』文久二年(1862)