前回の藤田貞資の門弟は全国に亘っている。その中で江戸の高弟に菅野元健がいる。調べると新宿との係わりが幾つか見つかり、なおかつ、興味ある人物であることが判明した。
『国書人名辞典』をもとに菅野元健を略述すると、「幕臣・和算家。生没年未詳。江戸時代後期の人。名元健。字は伯強。通称は幸次郎、津太郎。号は習斎・昌敷。大久保村に住み、初め石井雅穎に学び、次いで関流藤田貞資の門弟になる。著作は『補遺解伏題生尅篇』『交式斜乗捷法』ほかに『習斎算叢』など多数」。
まず、大久保村住というので、和算史では余り参照されていない『新編武蔵風土記稿』(文化・文政期に編まれた武蔵国の地誌)を調べてみた。豊島郡野方領東大久保村の項に「玉薬同心ら三十五人は出身して旗下の士に列し、あるいは他の職に居るもの」の中に菅野津太郎が見つかった。津太郎は元健の通称である。玉薬同心の家系であったが、のちに表火之番に移った。文化八年(一八一一)御本丸表火之番 菅野幸次郎 大久保たんす丁 七十俵高。大久保たんす丁の屋敷は、現在の新宿区新宿七丁目二十七辺り。
最近、大規模な土地開発の行われた「富久クロス」敷地内の旧新宿区立西富久児童遊園の一部分に元健の屋敷の存在を『屋敷渡預絵図証文』で見つけた。『屋敷渡預絵図証文』を調べると、文化十二年八月十七日付の「大久保久能町下屋仁左衞門・細倉藤五郎上地百八坪余、今の度願いの通り拙者屋敷拝領仕り、御渡しの四方間数御絵図の面御定杭の通り相違御座なく請取り申し候、後日のためよって件のごとし 表火之番 菅野津太郎 印」という記載がある。また、同日付の北隣の斎藤金次郎の証文も見つけた。これにより現医大道りから南に十七間二尺余(三十一メートル)入った先に菅野元健が百八坪余の屋敷を拝領したことが判明した。
関孝和が葬られた弁天町の浄輪寺には菅野元健がその門人小柴長裕、皆川勢栄、柴田美ら三人とともに寄進した位牌がある。この位牌には「法行院殿宗達日心大居士」とある。これについて著名な和算史研究家平山諦は「院殿大居士」は大名クラスの人物に付けられる戒名なので不自然であり、菅野らが関孝和を尊敬する余り付けたものと考えられるので、この位牌寄進の際に彼らは墓石もまた勝手に改刻したのであろう(現在も改刻の痕跡が見られる)、としている。
ところで、『武鑑』の「御本丸表火之番」によれば、文化八年、九年は菅野幸次郎、文化十三年、十四年は菅野津太郎、文政一年~文政七年は菅野津兵衛(他の文献には出ていないので誤りか?)、文政九年~天保六年は菅野津太郎になっている。津太郎は、文政十二年から「火之御番組頭 百五十俵高」に昇進した。
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『屋敷渡預絵図証文』 |
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