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 ⑤山路彰常(山路諧孝 の嫡男。通称は金之丞)は天保五年(一八三四)に天文方見習となり、父や渋川景佑による天保暦改暦に参加、改暦後もその暦書である『新法暦書』の暦理撰述をする。その功績により弘化三年(一八四六)に異例の親子二代の天文方任命がされた。また、天保九年には渋川敬直 と共に江戸参府中のオランダ商館長ヨハネス・ニーマンと会談し、モリソン号事件の真相を老中水野忠邦 に報告、安政三年(一八五六)の蕃書調所が天文方から分離されるまで蛮書和解御用を務め、その後も翻訳の業務に携わった。マシュー・ペリーが日米和親条約締結に際し江戸幕府に贈った電信機に関する調査や父と共に命じられた航海暦の編纂では父に代わって主導し、文久元年(一八六一)の父の没後に家督を継承、天文方廃止まで勤めた。明治十四年九月二十四日没。
 天文方見習であった嫡男⑥一郎(彰善)は慶応四年(一八六八)江戸城が開城されると彰義隊に参加して上野戦争で敗北、榎本武揚の旧幕府海軍とともに江戸を脱出し、以後旧幕府軍とともに各地を転戦、箱館戦争で敗れて捕らえられた。この間、彰常は明治二年春に嫡孫の彌吉(後の⑦ 愛山 )を連れて無禄で江戸から静岡に移り住み、程なく彌吉に家督を譲り、隠居生活を送った。明治五年、彰常は一郎が戊辰戦争で捕らえられて津山藩に預けられていることを知り、赦免を得て彰善を津山から連れ戻した。だが、彰善は失意のうちに旧幕臣の授産施設である横内勧工所に務めながら息子の愛山に手習いや英語を教えてその教育に務めつつも酒に浸るようになっていった。愛山が小学上等三年で就学を断念して就労独学に至った背景には一郎の放蕩による家産の喪失という事情があったという。山路愛山は回想録『懐旧録』(山路平四郎解説)や『命耶罪耶』の中で子供の頃(静岡時代)に祖父彰常より、これからは「商人の道」を学ぶように諭された時に武士の子としての誇りから「卑しむべき商人たらんよりは寧ろ自殺するこそよけれ」と叫んだことを記している。後にジャーナリスト・歴史家として大成した愛山はこの時の祖父の言が、孫の将来を憂慮した言葉であったと気づいて悔やみ、家に高祖父山路徳風、諧孝、そして彰常の三代の肖像画を掲げて子弟に祖父らの業績を鑑にする様に諭したという。和算とは離れるが、山路愛山は苦難を重ねて独学で勉強、特異な歴史学を展開している。愛山の三男⑧山路平四郎は早大文学部教授、天文方を知るうえの貴重な史料『天文方代々記』を所蔵。
 なお、山路一郎は、天保十二年(一八四一)生まれ、山路彰常の嫡男。山路愛山の父。天文方見習を務め、英語や数学に優れていたが、大叔母である奥留ふき子(曽祖父山路徳風の実娘)の意向を受けた父の命によってふき子の娘・けい子(愛山の生母)を娶わせられたことから、父と不仲となり、けい子が慶応三年(一八六七)七月五日に病没した後も解消されなかったという。晩年は愛山の影響を受けてキリスト教を信じるようになると、酒を断って「徳川武士の典型的老士」として、明治二十一年六月五日に没したという。

山路弥左衛門諧孝、小日向築地新小川町屋敷
(現新宿区新小川町1-7)『沿革図書』天保元年
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