山路主住は明和七年船山輔之・松永貞辰に関流の免許授与。関流和算を集大成して免許制度を確立。弟子に藤田貞資(新宿区須賀町西応寺に墓)・安島直円・有馬頼?(筑後久留米藩主二十五万石)・戸板保佑・松永貞辰・船山輔之・清原雅穎など。著書は先人の校訂や解説が主で『翳管解術』(寛保元年)、『算法集成』(延享二年)、『 畳抄差新術』(延享三年)、『贅式演段』(寛延四年)、『弧背詳解』(宝暦九年)、『変数之術』(明和四年)など。
安永元年十二月十一日、六十九歳没、谷中大泉寺葬。
山路家の家系は、
①山路弥左衛門主住 ― ②久次郎之徽― ③才助徳風(養子)― ④弥左衛門諧孝 ― ⑤金之丞彰常 ― ⑥一郎 ― ⑦弥吉(愛山)― ⑧金次郎・久三郎・平四郎(早大教授)
主住の子②山路之徽は通称久次郎・弥左衛門。宝暦十年部屋住より暦作測量御用手伝、五人扶持。安永二年(一七七三)に遺跡を継ぎ、小普請となる。妻は大橋小三郎重章(三代将軍家光の寵臣で牛込に知行地を拝領した大橋龍慶の子孫)の娘。オランダ語にも優れ、翻訳をしている。杉本つとむ氏は、之徽著のオランダ入門書『和蘭緒言』が宝暦十年(一七六〇)以前に著されていたことを発見された。これを根拠にして、杉田玄白が“『解体新書』の翻訳当初の明和七年(一七七〇)頃にはオランダ語の手ほどき書が何もなかった”とする『蘭学事始』(文化十二年著)の記述は間違いであるとしておられる。之徽は四谷住。安永六年(一七七七)五月に評定所儒者、役料五十俵となるが、昇進後、僅か一年足らずの安永七年一月三十日、五十歳没。
③徳風の子④山路諧孝は通称弥左衛門。はじめ暦作測量御用手伝になり、翌
年父徳風のあとを継いで天文方となる。文政十二年(一八二九)に高橋景保のシーボルト事件による失脚により蕃書和解御用をひき継ぎ、蕃所調所が天文方から独立するまで務めている。天保八年(一八三七)寒暖計を作って幕府に献上、翌年オランダ天文学者ペイポ・ステインストラ著『天文学の原理』を九年かけて翻訳し、『西暦新編』を完成させて幕府に献上。弘化三年には嫡男景
佑と共に『寛政暦書』の編纂や天保改暦に活躍。嘉永二年鉄砲奉行・箪笥奉行を兼務。安政元年(一八五四)に品川において望遠鏡の実験を行い、幕府に献上。同三年には天文方蕃所和解御用局の蔵書や業務を全面的に蕃所調所に移管。安政五年に隠居、電信機の研究、航海書の編纂を行った。なお、屋敷について、天保四年四月二十二日付『相対替御書附書抜』に「山路弥左衛門の木挽町四丁目屋敷百八十三坪を高柳清八郎と、山田官之丞四谷北伊賀町七十二坪余、および河内仁三郎小日向築地新小川町二百二十坪余と相対替」とあり、この時点で新小川町(新宿区新小川町一―七)と四谷北伊賀町(現新宿区荒木町三)の二カ所に屋敷があったことが判明する。また、『藤岡屋日記』によると、天保十三年十二月二十七日、小日向新小川町の屋敷を金魚商弥兵衛に貸して商いをさせていたことが発覚して厳重注意され、弥兵衛を近所に立ち退かせて一橋家輿舁齋藤弥三郎に貸した。しかし、これは名目のみで相変わらず金魚商弥兵
衛が世話をしていることが露見。諧孝は差控、屋敷は召し上げになった。諧孝は文久元年五月三十日、八十五歳没。
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山路弥左衛門諧孝、四谷北伊賀町屋敷
(現新宿区荒木町3)『沿革図書』 |
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