孝和の養子新七郎は甲府勤番支配興津能登守忠閭(四谷法蔵寺に墓)の追手門組に属していた。享保十九(一七二五)年十二月二十四日、建部広充(建部賢弘の父方従兄弟の子)が甲府勤番支配に赴任した当日、甲府城追手門の小判三百九十三両二分、甲州金千二十九両三分が盗難に遭った。翌年六月に江戸から目付松前広隆が徒目付、小人目付を引き連れて甲府に赴いて取り調べをした。その結果、盗難のあった時、関新七郎をはじめ勤番六名と同心らが賭博をして警備を怠っていたことが発覚、彼らは重追放になった。孝和が旗本になって三十一年、関家は断絶。不名誉な立場を糊塗するために家譜を改竄して、孝和を秀和、生年を省くなどをしている。
ここで本題の関孝和の身辺ならびに和算に戻ることにしよう。孝和の生年は不明のままであるが、取り敢えず寛永十七(一六四〇)年頃として話を進めることにする。
孝和の著書は約二十五種が伝えられているという。その中、延宝二(一六七四)、三十五歳頃に刊行(版木に彫って印刷した本)された『発微算法』のみであった。しかも現在見付かっているのは四冊のみとのこと。二年後、建部賢明(十六歳)、建部賢弘(十三歳)兄弟が入門。孝和は延宝八(一六八〇)年『八法略訣』『授持発明』を著し、続いて翌年から『授時暦経立成』『三部抄』『七部書』を纏め始める。天和三(一六八三)年二月、牛込天竜寺が類焼、四谷追分に移転。孝和の実兄内山七兵衛永貞は牛込天竜寺跡(現新宿区南山伏町、牛込警察署構内)に屋敷を拝領。この頃から孝和、建部賢明、同賢弘らは、斬新で高度な数学を整理、集大成し、のちの『大成算経』を纏め始める。孝和は、翌貞享元(一六八四)年から二年にかけて甲府藩役人として甲州の検地に参加。翌貞享三(一六八六)年一月に『関訂書』を書き、同月十六日には生後間もない長女を亡くしている(当時孝和は四十七歳前後)。元禄八(一六九五)年の甲府藩分限帳によれば、孝和は「禄高二百俵、御賄頭、御役料十人扶持、天竜寺前住」とあるという。「天竜寺」が四谷天竜寺なのか牛込の旧天竜寺を指しているのか、現時点では確定されていない。元禄十(一六九七)年、天文に関する『四余算法』を著し、翌十一年五月 に幼い次女を失う。宝永一(一七〇四)年十二月、主君綱豊が五代将軍綱吉の世継ぎとして西丸入りに従い、幕臣、三百俵、西丸納戸頭になる(孝和六十五歳位)。翌年、致仕して小普請になる。兄内山永貞は市谷加賀屋敷(現新宿区加賀町一丁目二北部)に屋敷替えになり、宝永五(一七〇八)年七月二十五日没、七軒寺町浄輪寺葬。孝和も三ヶ月後の十月二十四日、兄を追うように他界。法名法行院宗達日心大居士、浄輪寺葬。『大成算経』は関孝和の没後、建部賢明によって稿本には纏められたが、刊行はされなかった。一方、荒木村英は師孝和の遺稿を弟子大高由昌に『括要算法』として刊行させている。
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内山七兵衛屋敷(「沿革図書」)
(新宿区南山伏町1、牛込警察署) |
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