関孝和の養父関五郎左衛門について、同名六人の中で府中の五郎左衛門吉直は「江戸四谷住」とされていた(『武蔵府中物語』)。確かに『御府内沿革図書』(以後『沿革図書』と略す)四谷大番町(現大京町一二)の「享保五年之形」に関五郎左衛門とあるのが確認された。ところが、偶然のことから『屋敷渡預絵図証文』(『沿革図書』の原本、以後『絵図証文』と略す)元禄三年二月二日に「四谷表大番町瀬名十右衛門上地、六百八十八坪余、関五郎右衛門え」(図参照)を発見した。明らかに『沿革図書』の誤写。これを補強する十九日後の『絵図証文』元禄三年二月二十一日の「鷹匠町関五郎右衛門上ヶ屋敷北村季吟拝領仕り……(五百三十四坪余のうち三百四十四坪五合)」が見付かり、残地百八十九坪余は元禄五年に峯岸春庵が拝領している。北村季吟は著名な古典学者・俳人で、芭蕉の師匠。関五郎右衛門正武
(二百五十俵、榎町妙照寺葬)の鷹匠町から四谷大番町への転居であった。鷹匠町は現在の千代田区神保町。結局、四谷の関五郎左衛門吉直は関五郎右衛門正武であった。ここで、養父五郎左衛門は同名の
府中三名、山伏町二名とは別の桜田殿の御勘定(陪臣)を勤めた人物と考えてはどうであろうか? 浄輪寺関家は孝和の代に新たに旗本に取立てられた家である。
主として宝永年間(一七一一〜一七一六年)に登録された幕府役人の『御家人分限帳』によると、浄輪寺関家「三百俵・関新七郎( 小普請組・新助養子・内山松軒子・丑二十)」では孝和の養子新七郎は弟松軒の子、丑年(宝永六年)に二十歳。高安寺(府中)関家「百五十俵(内五十俵御蔵米)関伝蔵( 小十人組・五郎左衛門子・亥三十七)、五郎左衛門三名」では五郎左衛門の子伝蔵は亥(宝永四年)に三十七歳。下谷泰宗寺(山伏町)関家「百五十俵・関兵左衛門(勘定・五郎左衛門養子・山本甚五右衛門子・丑二十九)、五郎左衛門
二名」。妙照寺関家は「二百五十俵・関五郎右衛門(小普請組・五左衛門養子・兵左衛門子・酉七十二)」酉は宝永二年。
寛文元(一六六一)年、三代将軍家光の三男綱重は十万石加増されて二十五万石となり、甲府藩が成立、江戸桜田邸に居館を構えて桜田殿と呼ばれた。そして寛文四(一六六四)年から元禄に掛けて領内の検地を実施、孝和もこれに従事している。綱重が延宝六年(一六七八)に没し、綱豊が二代藩主になり、宝永元(一七〇四)年、五代将軍綱吉に男子がいないために将軍世嗣として江戸城西丸に移った。甲府藩
家臣はこれに従って幕臣となった。孝和もまた三百俵・西丸納戸組頭に進み、旗本に取り立てられるが、僅か四年足らずの宝永五年に没している。空席になった甲府藩主には柳沢吉保、次いで子吉里が継ぎ、享保九(一七九二)年、大和郡山に移封。甲斐は幕府直轄地として甲府勤番(勤番支配二名、勤番士二百人、与力二十騎、同心百人、小人二十人)が置かれるようになった。この年八月、孝和の養子新七郎も勤番士になっている。
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「屋敷渡預絵図証文」国会図書館 「沿革図書」 |
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