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 関孝和といえばすぐ和算を連想する。偉い人であったとは知っているが、具体的なこととなると意外に判っていない。史料によれば、関孝和(通称新助)は内山永明の次男として生まれた、とされているが、その生年および誕生地は不明である。かつて、孝和の生年が寛永十九(一六四二)年と言われたことがあった。孝和に一人の兄、弟二人、妹二人が居り、なおかつ、父永明は正保三(一六四六)年五月二日に病没している。孝和が寛永十九年に生まれたとすると、それから父が亡くなるまでの足掛け五年間に五人が生まれたことになってしまい不自然である。したがって、孝和の生年は寛永十七(一六四〇)年以前が妥当であろうと改められたが、確証たりうる史料が発見されるまでは生年不明のままである。いずれにしても孝和は十歳に満たない幼年で父を失い、養子にならざるを得ない境遇に置かれたのであろう。
 ここで孝和の養父について検討してみよう。幕府の編纂した『寛政重修諸家譜』では初めに、「関 秀和実は内山七兵衛永明が二男にして、関氏の養子となる。」とある。関氏(名前不明)の養子となったことは判るが、養家の家系は不明であり、新たに別家を建てた形になっている。別に孝和の実家「内山」を見ると、兄永貞のあとに「考和 新助 関五郎左衛門某が養子」とある。旗本関家は幕末に八家あり(関孝和家は含まない。理由は後述)この中で五郎左衛門を名乗るのは六人。この中で延宝元(一六七三)年四月十六日に府中高安寺じに葬られた関五郎左衛門吉直が妥当であろうとされていた。
 ところが数年前、断絶になった大名・旗本などを収録した『断家譜』(田畑吉正編、文化六(一八〇九)年作成)に関孝和家が記されているのが見付けられ、話題となった。『断家譜』には「関 某 桜田殿御勘定、寛文五年乙巳八月九日没、葬牛込浄輪寺、法名雲岩宗白──孝和 新助 実御天守番内山七兵衛永明次男 江戸生、桜田殿御納戸頭、賜二百俵、宝永元年甲申十二月十二日西丸御納戸組頭、同五年戊子十月二十四日没、葬牛込浄輪寺」とあって、養父は関某とされ名が記されていない。田畑吉正は『広益諸家人名録』に、「田畑喜右衛門 名吉正、字子帛。譜牒学。牛込払方町」とあり、譜牒学(系図学)の権威として牛込払方町(浄輪寺から一キロメートル程)に住んでいたのである。田畑は当然、浄輪寺の過去帳を見ていたであろう。事実、両者は大事なところは殆ど一致している。すなわち、『断家譜』は信頼してよい文書となった。養父の法名、没日は浄輪寺の「雲岩宗白信士」寛文五巳八月九日没、高安寺の「霊庵宗空居士」延宝元癸丑年四月十六日没、と違っている。養父関五郎左衛門の府中説は問題ありとされる中で、最近、追い打ちを掛けるように新たな史料ミスが発見されている。詳細は次号に。

関孝和墓(新宿区弁天町浄輪寺)
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