新宿区内には関孝和を初めとして和算に関係した人達が大勢いた。
殆ど独力で和算を切り開いた関孝和、当時としては余りにも斬新で難解な数学を解説、体系付け、国内に広めた人達、参勤交代の江戸で和算を学んで地方に広めた人達、神社仏閣に算額を奉納して成果を発表、新たに難問を示して解答を求め(遺題承継)、楽しんだ人達、仲間で問題を提示し、解答し、それを批判しあった人達がいた。また、関孝和の墓に詣でた人の中に、余りに痛んだ墓に驚き、仲間で拠金して新たに石碑を建てた人達もいた。そして、明治維新の学制決定に数学を従来の和算か、それとも新しい洋算を選ぶかに立ち会った人もいた。現時点で、新宿区との関係が 判明した和算家は百人を越している。 まず最初に、鈴木録之丞(円、央、政辰)を調べた経過から始めよう。天保十一(一八四〇)年、鈴木録之丞編『算法浅問抄解義』を発表。明治五年、文部省は小学校の教科書を洋算と決めるが強制はしなかった。明治十一年、東京数学会(社)が創立されると早速、雑誌第一号の「本朝数学(和算)」に出題、同年『容術新題』(正方形の中に円や円弧を含む百問)を刊行。 ところが、幕末の資料には「鈴木録之助」しか見当たらず、幕府の公式住所録である安政三年(一八五六)の『諸向地面取調書』には「居屋敷 四谷五十人町 七十坪余(同僚と同居)。拝領屋敷 赤坂丹後坂上 二百五十坪余。拝領屋敷 駒込新屋敷 百坪(安政五年には四谷内藤宿新屋敷六軒町 五十八坪余に移る) 小普請戸川主水支配 鈴木録之丞」とあり、所属に支配とあるので旗本であるのは確かである。屋敷三カ所の総坪数は三百七十八坪余となり、屋敷の広さから考えると四百石前後の旗本に相当する。ところが弘化四(一八四七)年九月に神田柳原の小普請組津田鉄太郎支配鈴木録之助拝領屋敷二百五坪余と二丸火之番を勤める福田斧次郎の四谷内藤宿五十人町(現在の新宿区三丁目一八あたり)七十坪余と相対替した時の『相対替御書附書抜』には禄高二十俵二人扶持と朱書きされており、極端な少祿である。福田の二に丸火之番は六十俵高。相対替とは話し合いでの屋敷交換で、普請奉行役所に書面で届け出れば許可されたが、金銭の授受は禁止されていた。しかし、これは名目だけでなかば公然と売買が行われていたようである。鈴木家は四谷五十人町に同居人を置いて住み、他の二カ所の屋敷は貸している。旗本が減祿(理由については目下不明)され、無役の小普請となり、生活費を得るのに汲々としているのがよく分かる。それが和算に熱中したためであり、鈴木録之丞(丞はスケとも読む)と鈴木録之助が同一人であると空想してみてはどうであろうか。
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内藤宿五十人町 鈴木録之助 |
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