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 前回の妻木伝蔵は、江戸幕府の実質的終末に目付として大坂城明け渡し役を勤め、江戸引き揚げ後は一橋家・清水家家老。維新後、静岡に移って静岡藩公用掛権大参事(現在の副知事に相当)。のち料理店を開業、横浜毎日新聞主筆、文部省、宮内省(帝室博物館の美術調査)を経て明治二十四年、六十七歳の波乱に富んだ生涯を閉じている。
 河田貫之助は、安政五(一八五八)年十一月学問所教授方出役、翌年六月儒者見習、万延一(一八六〇)年九月奥右筆所詰、文久二(一八六二)年六月には儒者、同年十月外国奉行支配組頭、翌三年十一月目付と目まぐるしく進み、翌十二月、横浜鎖港交渉の遣欧使節の一員としてフランス・イギリスその他に赴いた。もともと幕府は外交上鎖港は不可能と分かっていながら、朝廷に攘夷を約した手前、時間稼ぎの方便としか考えていなかった。ところが、正使池田長発は西欧文明のすごさと日本の開港の重要性を痛感し、交渉を途中で打ち切って予定より早く帰国した。困惑した幕府は池田を減祿、蟄居。河田は閉門、隠居。しかし、二年半後、許されて開成所頭取。慶応四年幕府の崩壊により徳川家に従って静岡へ。明治十年、徳川家達の英国留学に側近として竹村謹吾、大久保業(大久保一翁次男)らと共にロンドンに赴く。帰国後、徳川公爵家家扶。明治三十三年三月十一日没、六十五歳。河田は『旧事諮問録』(明治二十四年から、旧幕臣より幕府の制度を聞き出した記録)の「欧州奉使談判の模様および御右筆、目付の事」に当事者として具体的に答えている。
 筒井良左衛門は、天保十四(一八四三)年火消役津田鉄太郎組(市谷左内坂火消屋敷)の与力見習となり、六年後にやっと養父良左衛門隠居のあとを継いで高現米八十石。文久二(一八六二)年九月奥右筆所詰となり、『寛政重修諸家譜』の書き継ぎを勤める。
 安田次郎吉は、百俵二人扶持。拝領町屋敷大久保前町(現新宿区余丁町)百二十坪。安政五(一八五八)年九月箱館奉行支配調役並出役となり、文久一(一八六一)年八月外国奉行支配調役並出役(百俵高、役扶持七人扶持、役金五十両)、翌二年九月奥右筆所詰に進み、百俵加増。『寛政重修諸家譜』の書き継ぎをする。

 下戸塚にあった庭園懽楽園に集った漢詩人たちを追ううちに、松平定信が推し進めた寛政改革の一つとして新設された奥右筆所詰に関わった優れた人達がいるのに気付いた。追跡してみると、どうも定信が考えたような右筆所の改革は進まなかったようである。幕末になると将軍の継嗣問題、幕閣の権力争いに翻弄され、外交問題など政情の急変にその都度利用され、一方では有能な人物が埋もれたままであったりしている。おまけに安政元(一八五五)年十一月四日、諸国大地震、翌二年十月二日には江戸大地震が発生。多難の幕末は最近の国難と共通するものがあるのではなかろうか。

安田次郎吉の屋敷
(大久保前町拝領町屋内東部・現新宿区余丁町)
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