青木半蔵は、文化十三(一八一六)年より文政九(一八二六)年まで、屋代弘賢・日下部鉄之助と三人で奥右筆所詰を勤めている。半蔵はもと大久保新屋敷(現新
宿区若松町二十二、余丁町小学校前)に御留守居与力(現米八十石)として住んでいたが、富士見宝蔵番に移ると牛込末寺町(現横寺町)に転居、ついで飯田町中坂上(千代田区九段北二丁目、九段高校あたり)三百坪を拝領した。しかし、文化十三年奥右筆所詰になるまでは末寺町に留まっていたらしい。のち御台様用達、二丸留守居(七百石高)に進んでいる。
小川忠左衛門は、嘉永一(一八四八)年より安政三(一八五六)年まで関口雄右衛門と二人で奥右筆所詰を勤め、安政四(一八五七)年より安政六(一八五九)年
までの三年間を一人で勤めている。小川家は代々御留守居与力を勤め、宝永五(一七〇八)年に大久保四丁町(現新宿区余丁町十一)に屋敷を拝領。のち、牛込佐渡原(現新宿区甲良町二)に移っている。ここは前々回・前回に登場した篠本久兵衛の西隣に当たる。忠左衛門は部屋住み(親の在職中)より御実紀調(将軍の編年体実録調べ)出役に選ばれている。隣家篠本の推挙があったのでは? 親の没後、小普請に入り、ついで天守番となるが、今迄通り出役を続け、嘉永一年十二月奥右筆所詰に進み、寛政重修譜(大名以下旗本諸家の系図・略歴を纏めた書)書継ぎ御用手伝いを勤める。
関口雄右衛門(はじめ雄助)は、塙保己一(文政四年没)の門人、手跡は屋代弘賢門下。文化二(一八〇六)年八月西丸御徒(組屋敷下谷)、ついで和学所出役となり、以後長年にわたる史料調取立への尽力が認められて御目見え以上(旗本)に昇進、奥右筆所詰に移り、安政四(一八五七)年二月没。嫡男関口雄助は御小納戸に進み、四谷鮫ヶ橋上(現新宿区霞丘町明治神宮外苑聖徳記念絵画館西側)に屋敷五百坪を拝領。
妻木伝蔵は、文政八(一八二五)年、大久保の屋敷(現新宿区若松町一二若松区民センター)で生れ、やがて牛込若宮(現新宿区神楽坂三丁目六)に移っている。名頼矩、中務、田宮、多宮、通称伝蔵、号棲碧。五百石。弘化五(一八四八)年、学問所学問吟味甲科に及第。ついで甲府徽典館学頭、儒者。万延一(一八六〇)年、奥右筆所詰になり、老中の下で外国との書翰案文作成などに関っている。この頃、長州藩を脱藩した志士吉田稔麿(榮太郎、のち池田屋事件で自刃)を用人として抱え、以後、帰藩を許された彼と交友、幕府と長州の融和のために努めている。文久一(一八六一)年八月奥右筆所詰より目付兼帯蕃書調所頭取に異動。翌年六月には幕閣の交代により本兼とも免職。隠居して子頼辰に家督を譲るが、四年後の慶応三(一八六七)年八月再度目付に就任。翌年一月には幕府軍が鳥羽伏見の戦いで大敗。慶喜は大坂城を脱出。伝蔵は大坂城を尾張・越前藩に引き渡すよう命じられ、九日早朝、徳山・岩国藩兵、次いで尾・越藩兵が来たので城の受け渡しを談合中、突然爆発音がして火の手が上がった。火災は翌日まで続き、大坂城は全焼した。
 |
甲良町 笹(篠)本彦次郎・小川忠左衛門屋敷
|
|