文化三(一八〇六)年十二月、右筆所詰が主体となって、かつて新井白石が幕府に呈上した『藩翰譜』の『続編』が完成、褒賞を受けている。協力者の中には岡田寒泉(儒者、のち代官、新小川町住)や男谷彦四郎(勝海舟の外祖父、表右筆)、日下部順清らがいる。篠本久兵衛が市谷山伏町(現新宿区甲良町二)の屋敷で文化六(一八〇九)年に亡くなり、奥右筆所詰を屋代大郎が一人で勤め、文化十三(一八一六)年、日下部鉄之助・青木半蔵とが奥右筆所詰に加わったことが『武鑑』に出ている。今までの三名は著名な人物として諸所に記録が残されていたが、今度は『武鑑』に「日下部鉄之助下谷こうとく寺前」「青木半蔵飯田町火消屋敷脇」とあるのみで他の纏まった文献は殆ど見当たらない。
鉄之助と順清は奥右筆所詰に属したことは確実であるが関係不明。そこでまず日下部姓の家を洗いざらい調べることにした。旗本二家は割合はっきりするが、御家人は名、通称、号が入り交じり、おまけに通称が代々同じであったりして判別不能。夢香、梅堂(前回の淺野梅堂とは別人)、勘右衛門、祥太郎、七之助、友之進など日下部姓の人物が見られたが人々の関係は分からない。
前述の鈴木白藤の子鈴木桃野は『無可有郷』で「梅堂日下部氏詞学をとなへ、一時を風化せんとす。」「日下部梅堂に会して史を読。(梅堂は番町一名麹町三丁目なり。雨の夜も四ッ時までは会読行たり)」と述べ、梅堂が?詩に優れ、史書を読み、番町別名麹町三丁目の梅堂邸での勉強会は雨が降っても午後十時頃まで行われた、というのである。鉄之助と梅堂が同一人である可能性大と考え、調べることにした。「日下部権左衛門定之は四百石、小姓番、麹町三丁目表道住」「日下部夢香は号夢香・梅龕・梅巌・槎軒」「日下部査軒は名香、字夢香、別号梅堂」「日下部夢香、文久三(一八六三)年没」「日下部権左衛門 小普請 居屋敷五番町 五百坪」と断片が見つかったが、どうも屋敷所在地が「下谷こうとく寺前」とかけ離れている。
ところが、国会図書館の『相対替御書附書抜』(幕府普請方作成)に「文化十一年九月十三日、日下部鉄之助拝領屋敷 四谷角筈二百坪 小普請 矢部直吉へ。今井兵左衛門拝領屋敷 下谷広徳寺前百九十七坪余 奥右筆所詰 日下部鉄之助へ」を発見。文化十一(一八一四)年九月に奥右筆所詰の日下部鉄之助は四谷角筈(現新宿区西新宿一丁目十七、日本生命新宿西口ビル)二百坪の屋敷を小普請の矢部直吉に渡し、引換に今井兵左衛門の屋敷、下谷広徳寺前(現台東区東上野三丁目二六、台東区区役所敷地にあった広徳寺前)百九十七坪余に転居したというのである。ここでは文化十一年に鉄之助が奥右筆所詰とされているが、『武鑑』では文化十三年就任とされており、何れが正しいか不明。なお、前記の日下部順清には書道手本『御家詩歌帖』が見つかり、鉄之助と同一人である可能性大。
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日下部鉄之助屋敷(現新宿区西新宿1丁目)
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