江戸幕府は仕事や行事全般にわたって前例に従うのが習慣であった。そのため記録が残され、これを書記、管理したのが右筆である。右筆は奥右筆と表右筆に分かれ、奥右筆は老中、若年寄に所属して秘書的な役目をし、人事を左右する立場にもあったという。表右筆は一般行政文書の作成や記録係として能筆を要求された。寛政以降の『武鑑』(大名ならびに幕府の職員録、毎年発行)によって奥右筆の人数を調べると、総数三十名前後の内、現在の新宿区内居住者は五名前後、表右筆の総数および新宿関係者は奥右筆よりそれぞれ数名ずつ多い。ところが、黒船が来航した嘉永六(一八五三)年には五一名中九名、八四名中一八名と極端に増員され、幕府が対応に苦慮したことが窺われる。なお、安政五(一八五八)年の表右筆は一〇二名と最も多く、公式文書の発給数が急増し、人手によって作成する必要に迫られたためと思われる。それにしても新宿区内に住む右筆の割合が多いのは、有能な下級幕臣( 御家人)が結構多く住んでいたためではなかろうか。
ところで、寛政元(一七八九)年、寛政改革の一環として奥右筆所詰が新たに設けられた。『徳川実紀』の八月二十六日には「小普請瀬名源五郎貞雄奥右筆所詰同じ組頭に準じ、官料百俵下さる。」とあり、『武鑑』には「御奥御右筆所詰布衣御役料百俵寛政元酉八月より新規瀬名源五郎父十大夫弐百石うら六番ばん丁」とある。瀬名源五郎(現若葉二丁目妙光寺葬)は博学多才な和学者として知られ、地誌『新編江戸志』を著し、大田南畝との『瀬田問答』、は近隣の地誌として貴重。寛政五(一七九三)年、源五郎の老齢により、屋代弘賢(前出)とその親友、君子然とした穏和な篠本久兵衛(初め久次郎、号竹堂、漢学者、書家。多くの著書あり。大田南畝は畏友として年始に訪れている。現市
谷甲良町住)が任命された。篠本家の菩提寺は須賀町の栄林寺であったが現在は雑司ヶ谷の法明寺墓地に移されている。子彦次郎は天保九(一八三八)年に甲斐石和、ついで越後出雲崎、江戸の代官を勤めている。また、その子信之助も越後水原の代官となり、それぞれ江戸役所は市谷山伏町である。なお、信之助は文久二(一八六二)年、戸塚村に一千坪余の抱屋敷を入手、幕府倒壊によって駿府(静岡)に移住、名前を信也と改め、明治七年、東京に戻って大蔵省に勤め、やがて牛込中町に移住。相変わらず戸塚村の土地は所有していたとゆう。(北原糸子先生『武家抱屋敷—江戸から東京へ—』)幕末までに奥右筆所詰を勤めた人数は一一名と意外に少ないが、新宿区に関係ある七名の中には異色の人物がいた。
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「武 鑑」
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