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 楽園での最初の会合があった文政五(一八二二)年十一月二十三日は現在の太陽暦とは四十二日のズレがあり、翌年一月四日に相当する。凍てつく早朝、人々は三々五々誘い合い、わざわざ八幡坂上に迂回して野道を辿り、園南部の高台(積景台)へと集まった。日頃は気の知れた者同志、冗談が飛び交う賑やかな集いになるのが当然であったが、この日は園主松岡侯の放鷹が行われるため大声や笑い声を立てないようにと予め伝えられおり、人々は粛然としていた。侯は放鷹の恰好のよいところを披露しようと目論んでいたようである。神田上水沿いの園内北部低地には鷹狩の獲物が集まるように所々に堤を隔てて幅二間、長さ十間程の池が幾つか設けられ、垣の外側の大池から水が引かれ、百姓が年間を通じて管理しているいう。当時、鷹狩は高貴な人にしか許されない権威の象徴と考えられ、現代の狩猟とは格段の相違があった筈である。集まった人々も容易に見ることの許されない放鷹に期待を寄せていたのではなかろうか。当日、侯は獲物が多く集まる早朝を目掛けて出向き、収獲は鴛鴦鴨四枚、青首(真鴨のオス)一枚であった。これを青竹に吊るして皆に示された。  ところで、明治時代、新宿区内には鴨場が新宿御苑・前田侯爵邸(新宿六丁目、旧日本テレビゴルフガーデン)・大村さんの邸(歌舞伎町)・浜野邸(旧厚生年金会館西側)の四カ所にあった(『豊多摩郡の内藤新宿』)。現在はビルが連立する大都会であるが、百年前には渡り鳥が飛来する楽園があったのである。明治二十年の『内務省地図』の新宿御苑西南部に異様な地形のあるのに気付いていたが、何のために設けられたものなのか不明であった。それが今回、やっと鴨場であることが判明(図参照)。明治天皇も時々ここで鴨猟を楽しまれ、休息所を楽羽亭と命名されたという。懽楽園の北西部にもこれを小型にしたような堀が幾つか設けられていたのであろう。鴨場の猟(鴨猟)は細い水路を飛び立つ鴨を網で捕獲すが、鷹狩は馴らした鷹に獲物である鳥獣を捕らえさせる猟である。『夢蕉』では「放鷹」としているが「鴨猟」であったのかも知れない。  ついで、侯は園内の景勝十五景、・朝陽館・嘯月池・環翠亭・緑疇舎・梅花亭・寒蘆岸・観流塢・錦橋・深竹径・漱玉井・彩霞原・積景台・松濤軒・群芳圃・材門を分けて参会者に詩作(漢詩)するよう求め、侯もまた七言絶句を作られた。白藤はこれに対して「詩やや視るべし。袴の人(絹の袴を着けた貴族の意)文筆に志ある大いに賞すべし」と厳しい。やがて魚と果物が出され、各人持参の弁当を広げ、勝田半斎と入江は携えてきた酒を酌みながら苦吟した。夕暮れ近くなって人々の詩二十余編が纏められた。白藤は人々が苦吟する中、早々と詩作を済ませて園内を散歩。薄暮、早稲田村側の桜の門から帰途についた。 

明治20 年内務省地図 新宿御苑の鴨場
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