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 前回、懽楽園に集まった人達の一部を紹介しました。当時、官学派の詩人と呼ばれた錚々たる人物で、野村篁園以外は新宿区に関わりがあります。しつこいようですが、地域史の立場から続けることにします。
 ついで、鈴木椿亭(名忠恕、字猶人、通称文(分)左衛門、号椿亭、幽谷、狂歌名二分只取)は初め牛込中御徒町の御徒、のち御徒目付。牛門詩社同人。文政十二(一八二九)年六十五歳没。目白坂大泉寺葬。内山一谷(名謙、通称謙太郎)大田南畝の師匠内山賀邸の孫。弁天町の鳳林寺に葬られた。鈴木桃野(名成・通称孫兵衛、号桃野)は鈴木白藤の子。父から「豚児」と称されている。嘉永五(一八五二)年五十三歳没、袋町光照寺葬。植木玉�(名晃、字子健・居晦、通称八三郎、号玉�・半可山人)は学問所吟味に及第、狂詩で有名。大御番与力として若松袋町組屋敷住。原町二丁目恵光寺(現瑞光寺)葬。川上金吾助は日光奉行支配組頭(三十俵二人扶持)として大久 保余丁町鱗横町(現余丁町)七十八坪余住であったが、弘化二(一八四五)年信濃中之条の代官に抜擢され、江戸役宅を兼ねて牛込築土明神下(現新小川町二)三百五十八坪に移っている。これ以降万延元(一八六〇)年まで、摂津・大坂谷町、陸奥・川俣、関東・岩鼻、関東・馬喰町の代官を十五年間勤めている。弘化四(一八四七)年三月の信州大地震では中之条代官として活躍、ついで嘉永七(一八五四)年の大飢饉には年貢の減免を行い、村を救った生神様と崇められ神戸市の池の宮神社に川上大神が祭られた。また金吾助の四男和吉は森田岡太郎(妻は友野霞舟の娘)が万延元(一八六〇)年に遣米使節の勘定方組頭として随行するに先立って急遽婿養子に迎えられている。山内正誼(字子直、通称尚介。号碧 )は大田南畝の友人山内穆亭の長子。嘉永六年六十四歳没。入江乙次郎(名倫信)は小日向中の橋住。現米八十俵。朝比奈昌之助は嘉永三(一八五〇)年大番四番組与頭になり、元治 元(一八六四)年七月辞。四百七十五俵。屋敷小日向龍慶橋(現新宿区新小川町六東南部)。篠原力四郎は小普請。天保十四(一八四三)年小石川久保町より小石川三百坂通二百八十坪に転居。以上、湯島学問所に関わりがあるか、野村篁園に師事、漢詩グループに所属する気の合った仲間たちのようである。
 岩月弥右衛門は槍術師範。富士見宝蔵番、山伏町住。寛政九(一七九七)年大田南畝は年始に岩月家を訪れている。文政九(一八二六)年市谷門内に転居。以下の人は岩月の槍の門弟、誘っても来ない人もあったらしい。阿部良之助は弁天町先手組与力(屋敷は現弁天町保健センター裏組屋敷内)。押田新蔵は持組与力。加藤定之助と金田権右衛門は詳細不明。 

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