慶長十二(一六〇七)年、六十六歳になる家康は五歳の十一男頼房に付属するよう中山信吉に命じた。六十歳過ぎてからもうけた末子の将来を誠実な人柄の信吉に託したのである。翌々年、水戸藩二十五万石が成立すると附家老として信吉は一万五千石を拝領。
ところで、水戸藩附家老中山家は後に二万五千石、居館を常陸松岡(現茨城県高萩市)に設けている。附家老は万石以上でありながら大名とは別扱いであったが、便宜上、以降は松岡藩と呼ぶことにしよう。
元禄十二(一六九九)年、松岡藩は上屋敷を牛込赤城脇(現在の新宿区白銀町、白銀公園および東・西側を含め)におよそ三千六百坪を拝領。下戸塚村済松寺領の抱屋敷「懽楽園」は寛政四(一七九二)年から次第に買い足されて一万四千坪と広く、現在の早稲田大学総合学術センター東・北部を含めて甘泉園正門辺りまで、神田川を北の境界とした広い地域で、明治以降に屋敷内を東西に新目白通り・都電荒川線が貫通している。
十一代藩主中山備前守信情は、文政二(一八一九)年、父信敬の隠居によって二十五歳で家を継ぎ、文武に精進したらしく、文政五年十一月二十三日および同六年四月二十五日に近隣の文・武に秀れた人達を懽楽園に招いている。この様子を鈴木白藤が『夢蕉』に記録し、今に伝えられている。鈴木白藤(岩次郎、成恭)は大田南畝の後輩として同時代を生きた漢学者、文化から文政にかけて書物奉行を十年間勤め、江戸城内の紅葉山文庫を管理する仕事の中で密かに多くの秘蔵の書物を筆写、友人達にも与えたことが露顕して文政四(一八二一)年に免職になった。南畝はこれについて詩を贈っている。屋敷は横寺町の西北角地、神楽坂藁店上の光照寺に葬られたが、現在は孫の鈴木成虎の墓のみである。
次に、『夢蕉』によって参会者を追ってみよう。中山備前守の指示に従って具体的な企画や人選をしたのは亀里権左衛門名章。備前守の漢学師匠。もと東榎町の先手弓組(俗称「馬の首組」)の与力で屋敷は現在の大日本印刷榎町工場の敷地内にあったことが判明している。次いで留守居番与力(青山住)を経て、学問所勤番組頭(東五軒町住)を永く勤めている。懽楽園を管理する加藤忠蔵も亀里の門弟。野村君玉(名直温、号篁園・静宜園)は学問所の吟味に及第、儒者見習いとなり、詩人として皆から尊敬された。友野霞舟 は牛込北御徒町に住み、博学と抜群の記憶力によって人々から畏敬され、多くの人材を育て、江戸時代の漢詩一万五千首を集めた『熈朝詩薈』を編んでいる。勝田半斎(名献、字士信、通称弥十郎)は学問所勤番頭取、書物奉行を勤めて誰からも親しまれた詩人。四谷西念寺に墓がある。
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懽楽園周辺復元図
(西早稲田一丁目・三丁目)
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