高須藩主十三代のうち八代が養子、その中、尾張本家および本家筋より四人、当主の弟二人、一橋家、水戸家より各一人である。また、尾張藩主になった四人がいる。尾張藩からの財政援助は、立藩当初毎年合力米八千石から一万石、金三、四千両の支給が取決められ、以後尾張藩の財政事情によって変動。家老の九割近くの人数が派遣され、領地の水害や江戸藩邸の火災などの際にはその都度助成されていた。(『新宿区市谷仲之町西遺跡�発掘調査報告書』)
新宿駅西口周辺に最も足跡を残したのは高須藩十代藩主義建と思われる。父九代義和が水戸家から養子に入った関係で水戸家小石川邸で誕生、そのまま水戸邸に暮らしていたが、兄義質の夭折によって四谷藩邸に戻り、天保四(一八三三)年高須藩主になった。妻は水戸家十三代藩主斉昭の姉規姫(文政二年結婚)。弘化四(一八四七)年、角筈屋敷内の林泉に大がかりな改修をして十二景を設け、「魁翠園」と名付けている。嘉永三(一八五〇)年、五男義比に家督を譲り、角筈邸を隠居所として悠々自適。嘉永六年、喜多院権僧正允執中を招いて「遊角筈記」を撰文、巻末に十二景和歌を付して関譲古巌に書かせている。これは巻物にされて領地であった岐阜県海津町の歴史民俗資料館に保存されているという。
ところで、高須藩邸は、義和の代より数度の火災にあっている。文化八(一八一一)年二月、谷町より出火、片町辺まで延焼。四谷邸は残らず類焼。藩主義和は角筈邸に避難、ついで戸山屋敷に仮住いし、翌閏二月下旬に角筈下屋敷の増築部分が完成して転居、二年後の四月に四谷邸がやっと完成して戻っている。その十年後の文政四(一八二一)年三月、四谷藩邸規姫住居より再び出火、全焼。角筈邸に移り、翌年に本邸が完成して戻っている。復旧は尾張藩負担。安政六(一八五九)年またも四谷邸全焼。尾張藩市谷本邸に避難、角筈屋敷に移ったが、年内に本邸が完成して帰邸。二年後の文久元(一八六一)年九月、今度は角筈邸が全焼。それについて『藤岡屋日記』に、「夜五ツ時(午後八時)、美濃高須藩隠居松平中務大輔義建住居、角筈村下屋敷にて、明日隠居玉川へ鮎取に参り候とて大取込みにて大騒ぎ致し候紛れに出火致し、御殿向残らず焼失なり、しかる処この隠居子福者にて子供数多の内、尾張中納言二人、松平肥後守、松平越中守、皆みな子供にて何一つ不足なき身分なれば、今度の火災は果報焼けなるべしとて子宝で何も不足は中務みのおわり(美濃尾張)能き果報やけなり”」とある。当時、聡明な子供たちに恵まれ、しかも揃って格式ある大名家に迎えられた当家は、世間の羨望の的だったのであろう。しかし、幕末の動乱は身近に迫り、苦難の渕に踏み込みつつあった。火災の後、隠居義建は四谷邸に移り、翌文久二年八月、六十四歳没。
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安政3年(1856)新宿駅西口復元図
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