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 前回までの久世家家系を整理してみよう。三河の一豪族に過ぎなかった徳川氏が天下を掌握するために譜代の家臣たちは命懸けで力戦奮闘した。その一人である久世家の初代は三四郎広宣。長男は三四郎広当(本家、旗本五千百十石余、大久保百人組頭、大久 保に抱屋敷)。次男勝宣(坂部家に養子、戦死)。そして三男広之 は分家して大名に出世する。今回はこの分家について述べることにしよう。

 久世広之は大坂の陣が終結した翌々年、九歳で将軍秀忠に初めて拝謁、小姓となった。一八歳で兄広当の采地のうち五〇〇石を分与されて分家。寛永一二(一六三五)年に御徒頭、翌年、小姓組番頭に進み、ついで三代将軍家光の側衆となった。これが彼の人生を大きく変えることになった。才能を認められて次第に重用されるようになり、四五〇〇石加増されて五〇〇〇石に。さらに将軍の側近として幕政に関与、信任厚く更に慶安一(一六四八)年に五〇〇〇石加増されて一万石の大名。時に四〇歳。ついで若年寄に進んで二万石に増え、寛文三(一六六三)年、ついに老中に登り二万石、六年後には再び一万石加増されて五万石、下総関宿城主となった。延宝七(一六七九)年六月二五日、七一歳で没し、本家久世三四郎広賢の四谷別荘に葬られ、のちに小日向の別園に改葬された。

 四谷別荘とは、かつて内藤若狭守重頼別荘の地を久世大和守より寄進された四谷理性寺を指している。寺は承応三(一六五四)年に大久保忠辰、同忠昌(次回説明)兄弟が父大久保荒之助忠当および母(久世広宣の長女、広之の姉)の菩提を弔う為に造立された。延宝八(一六八〇)年作成の「江戸方角安見図」を見ると、四谷大木戸の北側に東から「久世三郎右衛門」(久世本家三代広賢、長姉は内藤大和守重頼の妻)「自性寺」「御鉄砲や」とある。ちなみに広之の法名は「自証院殿心光日悟大居士」である。また、小日向の別園は同図の小日向大日坂上西側(現、音羽鳩山邸の南側、久世山と呼ばれた)に「久世大和守」とある。

 ところで、二代重之は五代将軍綱吉の気紛れのため備中庭瀬、丹波亀山、三河吉田と三度国替 になり、若年寄に進み、四度目でやっと関宿に戻っている。宝永六(一七〇九)年、家宣の六代将軍宣下にあたり秋元但馬守と共に司っている。かつて家宣は甲府宰相綱重(家光の三男)の庶子(妾腹の子)に生まれ、虎松といい家臣新見備中守正信に預けられ、長じて左馬頭と称した。父家綱の跡を継ぐにあたり、実子でないとか、狂気があるとか陰口があった。当時、老中であった重之の父広之はこれを取調べ、単なる讒言であることを確認、関係者を処罰していた。正徳二(一七一二)年一〇月、将軍家宣が在職僅か三年で没し、重之は翌年八月老中に進む。七代将軍家継は四歳で就任、八歳で死去。八代将軍に吉宗を積極的に支持、一万石を加増 された。

関宿久世家は、初代広之、二代重之のほか四代広明、七代広周(再任)の計四名の老中を出した名家である。

「江戸方角安見図」延宝8 年(1680)
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