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久世三四郎広当の父広宣は十六歳で家康の武将大須賀康高に属し、武田 方と東遠江の牙城である高天神城(現静岡県掛川市)の攻防に奮戦、度々武 功を挙げた。この頃から共に戦ったのが前回に登場した坂部三十郎広利の父 広勝である。二人は同じ年齢のせいもあって三十郎・三四郎と対をなして手 柄を競う仲であった。のちに二人は大名になった大須賀家の家老になるが武 骨な二人は嫌われて蟄居を命じられている。 ところで、天正九年(一五八一)高天神が落城。翌年三月、武田勝頼は織 田、徳川勢に攻められて天目山で自刃。それから三ケ月も経ない時点で織 田信長が本能寺で倒れる大事変が勃発した。混乱した甲斐を狙って小田原の 北条と徳川との争奪戦が繰り広げられた。八月二八日、広宣が若神子(現山 梨県北杜市須玉町)で死闘した様子が『寛政重修諸家譜』に講談調で書かれ ている。 「軽兵を選んで先手とし刈田の兵を追わしむ。敵(北条方)は大軍をみてし ばらく戦うが引退く。広宣直ちに豆生田の砦を攻む。敵火砲を飛ばすこと急、広宣乗入れんと土居(土塁)に登ると敵八人出むかうが味方の続くを見て引退く。広宣これを追う。時に(敵方)野中六右衛門槍をもって渡り合う。広宣ついに槍を打落とされ、これを取らんとして振返るところを槍で鼻骨を突かれ、左耳の根、左眼の上を突かれて土居より転落、上から重ねて突かれる。とっさに広宣右手で六右衛門の槍の鋒を掴み、互いに争い、左手に取直して刀を抜く。六右衛門これを見て槍を引き退く。広宣これを追いて再び土居に登る。敵一人鉄砲を構えて土居の内にあり、一、二間を隔ててこれを放つ。玉は広宣の脇下を飛び抜けて怪我なし。再度突進むが敵槍を構えて迫る。とっさに刀を捨て槍を拾って戦い、ついにその敵を突倒す。首を掻かんとすれど刀なし。土居の際に戻り刀をとらんとすれど、また敵迫る。数刻戦うといえども顔面の疵より血流れて眼見えず、止むなく土居に退く。また敵一人広宣に迫る。戦いて首を取り、砦の外に出る。時に一千余騎の兵攻め来るを見、仲間の菅沼兵蔵は敵の襲来とて柵を越えて退かんとす。広宣、数カ所の疵のため敵の備えに紛れて逃れ、叶わなくば討死にせんという。兵蔵これを聞き捨てがたく後ろに従う。軍勢迫り、覚悟を決め、眼を見開けば敵に非ず味方なり。広宣これより大久保忠佐にだき抱えられて公(家康)の御前に出、討取りし首を献ず。公、御手ずから広宣の疵に薬を付けられ、外科医山本上林に治療を命ぜらる。」 まさに死闘。槍疵によって恐ろしい面構えになったであろう。この後も同様な戦を度々くぐり抜け、慶長一九年(一六一四)の大坂の陣には長男三四郎広当も一七歳で初陣、手柄をたてている。次男勝宣は戦友坂部三十郎の養子になって出陣、翌年、僅か一五歳で戦死。三男広之は分家し、のち大名に取り立てられた。(つづく)
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