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 江戸時代、新宿職安通りのJR山手線ガード下辺りから東南にかけて、新宿ハローワーク、西武線新宿駅北口、大久保公園、都プラザハイジア、大久保病院、歌舞伎町交番にかけて一万二千三百坪余が旗本久世三四郎家(久世家の当主は代々三四郎を称した)の抱屋敷になった。久世家二代目の三四郎広当が寛永一二年(一六三五)に大久保鉄砲百人組の五代目頭に就任した時である。  ところで、慶長五年(一六〇〇)徳川家康は関ケ原の合戦で天下の覇権を握り、伏見城で論功行賞を済ませ、翌年十一月に江戸城に帰着。まず最初に内藤清成と青山忠成を関東総奉行に任命。清成は五千石から二万千石の大名に取り立てられ、与力二十五騎、同心百人を預けられた。大久保鉄砲百人組の成立である。四三年後の正保元年(一六四四)『正保江戸図』によると、組屋敷は現在の百人町に「久世三四郎与力同心」とあり、新宿御苑およびその周辺に「久世三四郎与力」が分散して十四ケ所見られる。これは当組の初代、二代目頭が内藤清成、清次のため屋敷内に与力を居住させたからであろう。当時、与力の給地が頭に与えられていたり、頭が辞任の際に所属の与力、同心の幾人かを家臣(陪臣)に引き抜くケースもあったようである。

 ここで、脇にそれるが、広当を紹介することにしよう。父は剛勇で知られた久世三四郎広宣。

 寛永七年(一六三〇)七月二一日、夜、備前岡山城の大手前は踊りで賑わっていた。藩士河合又五郎は同家中の渡辺数馬を訪ねた。不在のため弟源太夫と話していたが、どう縺れたのか突然又五郎は源太夫を切って逃げた。数馬は急を聞いてすぐ又五郎の父河合半左衛門方に押しかけた。しかし半左衛門は門を閉じて入れない。藩の重役が斡旋に手間取るうち、半左衛門は又五郎を他所へ隠し、さらに江戸へやって旗本安藤次右衛門正弥の庇護下においた。旗本は大名への対抗意識が強く、又五郎を藩に返そうとしない。岡山藩主池田宮内少輔忠雄は日頃親しい旗本久世三四郎広当と阿部四郎五郎正之を通じて交渉した。その返事に半左衛門と交換ならば返すというので、誓紙を取った上で半左衛門を江戸に護送した。だが誓紙は反故にされ、半左衛門、又五郎両人は旗本に庇護されたままであった。「荒木又右衛門・伊賀上野の仇討ち」の発端である。仇討ちは寛永一一年(一六三四)一一月七日行われた。

 この頃、広当は先手鉄砲頭として与力十騎、同心五十人を預かっていた。この組は寛永一二年一一月に広当が百人組の頭に移ると、坂部三十郎広利が引継いでいる。前記の『正保江戸図』では「坂部三十郎同心」が四谷に二ケ所見られる。確証はないが、広当もここを同心組屋敷としたのであろう。同組頭は初代大久保権右衛門、二代服部半蔵、三代久世三四郎広宣、四代久世三四郎広当、五代坂部三十郎広利……三四代松平源大夫と続き、同心は三十人と減るが、幕末まで同心組屋敷の位置は変わっていない。(つづく)

「正保江戸図」正保元年(1644)大久保百人組与力屋敷
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