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 当主不在の清水家は高田屋敷(甘泉園を含む)を田安家に渡して一一年、明治三年四月、七代目として水戸家から徳川篤守を養子に迎え、やがて清水家本邸として高田屋敷が返還された。翌年、篤守は姓を徳川から清水に改め、コロンビア大学法学部に留学。同一〇年、帰国すると何故か徳川に復姓している。

 明治一七年七月、篤守の長男好敏がこの屋敷で誕生した。好敏は陸軍士官学校を卒業、ついで陸軍砲工学校(現新宿区若松町統計局から警視庁第八機動隊にかけて所在した)高等科を終了、飛行術の習得と飛行機購入のためフランスに出張。アメリカのライト兄弟が人類初の飛行に成功してから七年、明治四三年一二月一九日、代々木練兵場(現在の代々木公園)でフランスから輸入したアンリ・ファルマン機により日本初の飛行に成功した。現在、これを記念して代々木公園南門近く(渋谷区神南二丁目)に「日本初飛行の地」碑および徳川好敏のブロンズ胸像がある。昭和三年、航空界への功績により男爵を授与され、同一〇年には中将に進み、終戦時には入間の陸軍航空士官学校の校長であった。昭和三八年四月、七八歳没。

 時は遡るが、明治三四年七月、当主清水篤守は事業に失敗して高田屋敷を相馬永胤(横浜正金銀行頭取、元彦根藩士)に譲渡。

 昭和一二年二月、相馬家は屋敷を早稲田大学に譲渡。そして、戦後、昭和三六年九月、早稲田大学は法商研究棟建設のため大学に接した高田富士と水稲荷神社を高田屋敷と交換。四三年、水稲荷神社は庭園の大部分を東京都に譲渡。翌年、東京都は甘泉園を整備し、管理を新宿区に移管、現在に至っている。なお、現在の甘泉園の門は『江戸名所図会』の太田道灌の山吹の里に描かれた門を模したのではなかろうか。



〔お詫びと訂正 前回、大田南畝の実弟金次郎が旗本であるような記述をしましたが、その後、新たな史料が見つかり、金次郎は旗本島崎家の分家筋にあたり、旗本ではないことが判明しました。お詫びして訂正いたします。新たな史料は島崎本家が甲府勤番医師に移され、幕末まで三代にわたって甲府に定住したという文書(国立公文書館蔵、多聞櫓文書)です。これが分からないまま、本家が浄栄寺から甲府へ転寺した跡に分家筋の家系を年代的に矛盾がないので繋げてしまったためでした。定評ある『蜀山人の研究』の著者玉林晴朗氏も昭和一九年に栄貞の孫を尋ね、島崎家蔵の過去帳によって調査し、同様な間違いをしておられます。島崎家初代登栄一は盲目の鍼医として優れ、八代将軍吉宗に拝謁、旗本に取り立てられて奥医師に昇進。その孫栄元の弟幸蔵が清水家に仕えて分家、のちに金次郎を養子に迎えたのでした。〕

徳川好敏像(代々木公園内)
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