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 清水家家臣にとって有利なこともあったので、次に触れることにしよう。

 寛政七年(一七九五)清水家初代当主家好が病死し、清水家は断絶の形がとられ、家臣は幕臣に召し抱えられた。この際、清水家での役職が幕臣になってもほぼ同列に扱われたようである。例えば小会社が大会社に吸収される際、かつての小会社の部長が大会社の部長と同列に扱われるようなものである。清水家にあって当主にお目見の役職にあった一五家は一〇〇俵余の小禄ながら幕臣旗本に取り立てられている。このような措置は徳川御三家、御三卿のうち清水家だけであった。だが前述のように無役の者たちは清水勤番小普請として残された。ではこのように断絶といいながらずるずると存続する清水家になったのは何故だろうか?創立当初は徳川家存続のためという明確な目的があった筈であるが、一一代将軍家斉が五五人の子女をもうけ、ついで一二代将軍家慶の子女二七人(成人したのは三人のみ)という子福者のため、その処遇に悩んだ結果ではなかろうか。

 ところで、新宿区内に関係ある人物が幸運に恵まれた例を挙げてみよう。

 牛込中御徒町(現在の新宿区中町)に住んだ狂歌で有名な大田南畝(蜀山人)の次姉は清水家小十人世話役の吉見佐吉に嫁ぎ、その子吉見儀助(狂歌名紀定丸)も清水小普請世話役であった。この際に幸運にも評定所留役助に移り、やがて三五〇俵高の勘定組頭(旗本)に出世する端緒となっている。また、南畝の実弟金次郎は次姉吉見氏との関係で清水家勤めの島崎幸蔵の養子になり、清水表向勤番を勤め、子貫一郎は清水附小十人組頭。微禄とはいえ旗本であることが判明した。話が脱線するが、明治一〇年、夏目漱石(当時、塩原家の養子のため塩原金之助)は市谷学校下等三学級を卒業(終業)、東京府庁から優等賞を授与され、その賞状が現存するという(『新宿郷土研究』第二号、一瀬幸三)。この市谷学校は明治八年に創立され、初代校長は島崎栄貞(四六歳)。栄貞は学歴に「六年間友野雄助(霞舟)に漢学を学び、あと昌平坂学問所で四年間漢学修業した」と書いている。雄助は牛込に住む著名な儒学者・漢詩人で労作『煕朝詩薈』(江戸時代の名漢詩の集大成)を編み、人々から畏敬され、多くの有能な人材を育てている。島崎家は代々浄輪寺(新宿区弁天町)に葬られ、栄貞は金次郎の孫であることが寺の過去帳より判明した。この学校は明治一三年に加賀町の吉井学校と合併して北町の愛日小学校になっている。したがって漱石も島崎栄貞に学んだものと思われ、彼が漢詩(漢詩一七六首が現存)を能くしたのは幼い頃の島崎先生の影響ではなかろうか。漱石は作品『硝子戸の中』で幼い頃の思い出として、市谷学校で友達だった喜いちゃん(桑原喜一)と南畝の写本のことで悶着があったことを述べている。ちなみに、大田南畝は一生旗本になれなかった。(つづく)

明治11年 市谷学校(広重画)
「新宿区教育百年史資料編」より
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