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前回、御三卿の一つ清水家の当主が二〇年間不在であったと述べたが、江戸時代を通じて大名家をはじめ幕臣の家系は跡継ぎが居なければ断絶するのが当然であった筈?…………。 御三卿は将軍に嗣子がいないときに継嗣を出す御三家に次ぐ家格と考えていた。しかし、どうも大名扱いではなく、将軍家の親族扱いとして成立し、家臣も幕臣から転属になった者、幕臣の縁者や推挙によって直接採用になった者などで構成されており、俸祿も幕府、主家から支給されていた。その上に清水家は宝暦九年(一七五九)九代将軍家重の次男家好(八代将軍吉宗の孫)によって成立し、幕末の幕府倒壊までの約一一〇年間、六代にわたる当主は全員実子がなく、二代以降はすべて養子を迎えている。 煩雑になるが、次にその異常さを略述することにしよう。 初代家好が病死した時、幕府は跡継ぎは決めないまま清水家断絶の形式で家臣全員を幕臣として召し抱えている。しかし、無役の者は幕府の小普請組に組み入れないで清水勤番小普請として新たに設けた清水勤番支配に属するようにした。当主の不在を見越しての処置と思われる。当主不在三年程で一一代将軍家斉の五男敦之助(三歳)が二代当主となり、清水勤番支配は家老に代わるが、一年足らずで没し、再び当主不在六年、三代当主に家斉の七男斉順が五歳で就任。一六歳になると嫡子のいない紀伊徳川家に婿養子に移され、半年ほどして今度は四代当主として家斉の一三男斉明が四歳で就任。一三歳で伏見貞親親王の女英子を迎えるが、病弱のため一九歳で病死。次に五代当主として家斉の二一男斉疆が八歳で就任。二七歳の時、兄斉順(清水家三代、紀伊家一一代藩主)の急逝により紀伊家一二代藩主に移る。この後、前回述べた二十年にわたる当主不在となり、清水家特有の清水勤番支配に戻されていた。幕末せっぱ詰まった慶応二年(一八六六)一二月、前回述べたように、一五代将軍慶喜の弟昭武が清水家六代を継ぐが直ぐに万国博の使節としてフランスに赴き、およそ二年後の明治元年一一月、帰朝すると水戸徳川家への養子入りが決められており、時代が変わったとはいえ、またしても三年間当主不在となっている。 この異常さは驚きである。清水家本来の存在意義から遠く逸脱し、将軍・御三家のために家をなさない家格のみが捨て駒に利用されていたことが理解されよう。 次回は逆にこの制度で幸運に恵まれた人々について触れることにしよう。(つづく)
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