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西早稲田三丁目に区民の憩う回遊式庭園、新宿区立甘泉園がある。ここがかつて御三卿の一つ清水家の下屋敷であったことが知られている。今回、執筆するに当たり資料を探したところ、予想外な幾つかのことを見付け、楽しむことが出来た。 最初、宝永七年(一七一〇)下戸塚村(現新宿区西早稲田三丁目あたり)の畑地七千坪が尾張徳川家に与えられた。二年半程して大草屋敷(現新宿区富久町西北部から余丁町にかけて)の一部と相対替(交換)で大草内記の屋敷となり、約六〇年程した安永三年(一七七四)九月、御三卿清水家下屋敷になっている。清水家は九代将軍家重の次男家好(八代将軍吉宗の孫)によって成立し、一〇万石。 上屋敷は北の丸(現科学技術館あたり、清水門が現存)、下屋敷が浜町(現中央区日本橋蠣殻町二丁目)にもあった。下戸塚の屋敷は清水家高田屋敷と呼ばれ、現在の甘泉園、水稲荷神社、甘泉園住宅の範囲である。少し遅れるが、北側に面影橋、神田川まで四七〇〇坪余を抱屋敷として入手、屋敷地の一部に囲込んでいる。この頃になると土地所有権は幕府の力をもってしても勝手に決めることは出来なくなり、御三卿(田安・一橋・清水)の新任家臣たち(幕臣からの横辷りもあり)は拝領屋敷をもらうことが出来ず、抱屋敷として農民所有地を購入もしくは借入して年貢や諸役を負担しなければならなかった。現在の鶴巻町、早稲田町、榎町、天神町、若松町、原町などには御三卿家臣の抱屋敷が極めて多い。この頃、天神町で抱屋敷入手のための入札が行なわれたところ、落札したのは参加した武家ではなく農民であった、という記録も残されている。 弘化三年(一八四六)紀州藩一一代藩主徳川斉順が死去し、代わって清水家五代藩主斉疆が紀州藩一二代藩主に移り、清水家は以後二〇年間にわたって当主不在。この間の安政六年(一八五九)九月、高田屋敷は藩主不在のため召上げられ、田安徳川家の四谷下屋敷が類焼した代屋敷として引渡され、幕末に及んでいる。 慶応二年(一八六六)一二月、一五代将軍の弟昭武(水戸徳川家九代藩主斉昭の一八男)が清水家を継ぐが、パリ万国博覧会の幕府代表として急遽出発、幼い昭武の守役として山高信離(のち上野博物館長、京都博物館長。区内弁天町の宗参寺に墓。儒家の林家から山高家に養子に出た人物である。次男の曄は林家に嗣子がないために林家を継ぎ、医者に転じて現在の林外科病院を創立している。)が随行し、苦労している。幕末の動乱のため薩摩藩も別個に万国博に出品して混乱。それぞれ「日本大君政府」、「薩摩大守政府」と名乗り、日本は権力争いをしている二国が存在する国としてパリの話題に上ったという。(つづく)
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