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本稿①で、穴八幡宮の後側の高田天満宮跡に「大安楽寺墓地」という標柱があると書いた。その由来を述べることにしよう。 明治八年五月、新政府は吉田松陰や平賀源内が処刑された小伝馬町の牢屋を市谷の板倉伊賀守勝静の下屋敷跡(現在の新宿区市谷台町)に移し、市谷監獄とした。幕末の老中であった勝静への薩長の嫌がらせである。牢屋跡は江戸の目抜き通りである江戸通りに面した繁華街のため、見世物小屋や講釈場になるだろうと予想されていた。しかし、予想に反して人々は罪人を処刑した不浄地として敬遠し、荒れた草原のままであった。止むを得ず公園にしたが人々は寄り付かなかった。たまたま近所に火災が発生し、家財を急いで公園に運び出した。ところが、火事は大したことなく消えたが公園に運び出した家財はすっかり焼けてしまった。人々は祟りとしてますます近寄らなくなってしまった。そこで公園の一部に刑死者慰霊のため祖師堂と大安楽寺が建立され、現在は十思公園になっている。大倉喜八郎と安田善次郎の協力を得、大安楽寺の創建に尽力した開基山科俊海和尚は麻布(現港区六本木三丁目)の不動院住職との兼務、なおかつ江戸時代を通じて真定院が不動院の末寺であった。この関係で、現在墓地には俊海和尚の墓があり、大安楽寺に所属しているとのことである。 ところで、明治二三年高田天満宮は別当真定院を失って荒れ果て、すぐ近くの水稲荷神社末社としてその境内(現在の早稲田大学九号館・法学商学研究棟あたり)に移され、北野神社となった。水稲荷神社はもと戸塚稲荷といわれ、下戸塚村の産土神であった。『新編武蔵風土記稿』によると、文亀元年(一五〇一)米沢藩上杉家の血統にあたる上杉朝良が霊夢をみて稲荷を勧請、天文一九年(一五五〇)小田原の北条氏綱(北条早雲の子)の時代に牛込主膳時国が再興したという。その後、元禄一五年(一七〇〇)に社前の榎の椌(空洞)から霊泉が湧き出し、眼病を患う者がこの霊水で眼を洗うと霊験があるので水稲荷と呼ばれるようになった。下って安永九年(一七八〇)地元の富士講大先達藤四郎の発起で水稲荷北側に老若男女によって高田富士が築造され、六月には山開きと称して参詣者が群集した。この様子を大田南畝(蜀山人)の親友朱楽菅江が『大抵御覧』で活写している。また、水稲荷の管理をした別当宝泉寺も由緒ある寺で境内七千坪と広大、かつては境内南の高台に毘沙門堂があり、時鳥の名所として著名。現在も新宿区西早稲田一丁目にあり、藤四郎(法名日行)、初代一龍斎貞山(講談師)の墓などがある。 昭和三八年、早稲田大学の敷地拡張のため、水稲荷神社とともに北野神社は現在の西早稲田二丁目に移転、北野天満宮となった。
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