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天神町に牛込天神社を造営した大橋龍慶は正保二年(一六四五)二月四日、六四歳で没するが、幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』には菩提寺が記されていない(これは彼が生前に何らかの処罰を受けたことを意味している)。 ところが平成七年、偶然にも中野区上高田の宗清寺に龍慶の墓が存在することが判明した。墓は台石を含めて全高六五センチ、五百石の旗本の墓にしては意外に小さく粗末であった。息子大橋重政(幕府右筆、書家として著名)の墓に合葬されているのではと、藤沢市(知行地)の空乗寺を訪ねたが重政の高さ一八〇センチと立派な墓(藤沢市文化財)のみであった。余談になるが、龍慶の出生地大阪府松原市で平成九年「大橋龍慶展」が催された。中に「大橋龍慶寿像」という高さ一メートル、幅九〇センチの木座像があり、背面には自筆の略伝が記され、「牛込の屋敷にある榎の大木が大風に倒されたので藤原真信に刻ませた」とあり、最後に沢庵和尚の偈が書かれているという。今からおよそ二七〇年以前に直径一メートル余の榎の大木が存在したこと示しており、榎町と呼ばれたのが納得される。この寿像は彼が亡くなる少し前の寛永一九年(一六四二)、生地の氏神誉田八幡宮に寄進したものである。また、この頃、愛蔵の三十六品も寄進し、現在重要文化財に指定されているものもあるという。生国とはいえ、遠く離れた河内にまで送ったのは家光のご機嫌を損ね、ことと次第によっては切腹になるかも知れないと危惧したためではなかろうか。 龍慶の没した翌正保三年(一六四六)一〇月、済松寺開基祖心尼が牛込西部を引き継ぐ形で拝領、牛込天神社は領内の牛込馬場下町の西側(『寛文江戸図』にあり。現在の新宿区戸山一丁目早稲田大学文学部敷地東部)に遷座され、境内および畑地約二千九百坪となった。 寛文八年(一六六八)祖心尼は孫娘お振の方(富久町の自証院開基、小金井の江戸東京たてもの園・自証院霊屋[都文化財])と三代将軍家光との子千代姫が尾張藩主光友に嫁いだ縁で、戸山の所領四万六千余坪を尾張藩に譲り、御殿などの造営が始まった。数年して幕府から北側に八万五千余坪を拝領、回遊式庭園も次第に整備、拡張された。 天神社が戸山に移って二九年を経た延宝三年(一六七五)尾張藩普請奉行から戸山屋敷拡張のために宮地を譲り受けたい旨、社僧に伝えられ、天神社は穴八幡の西隣裏手に移された。この年、三月一一日に祖心尼は入寂している。 (つづく)
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