社団法人新宿法人会
サイト内検索 powered by Google
サイト内 Web
おまけの便利LINK マルチ辞書  |  地図  |  乗換案内
広報誌
広報誌「しんじゅく」
新宿法人会とは
ごあいさつ
活動内容
入会方法
情報公開
支部一覧
アクセス
会員紹介
部会ご紹介
青年部会
女性部会
源泉部会
会員の皆様へ
研修会・講習会
事業予定
コラム
新宿歴史よもやま話
世界遺産紀行
リンク
お役立ちサイト
全国の法人会
   

 前回、牛込西部は寛永一二年(一六三五)に大橋龍慶に与えられたと述べたが、ここで彼の略歴に触れることにしよう。

 大橋龍慶(幼名勝千代、のち長左衛門、重保。龍慶は隠居剃髪後の号)は天正一〇年(一五八二)河内国生まれ。三歳の時、父大橋左兵衛重慶が長久手の合戦で戦死。のち、南禅寺の以心(金地院崇伝)に随従。やがて豊臣秀次に仕えるが、文禄四年(一五九五)主君秀次の自刃により一四歳で西国を流浪、片桐且元に抱えられた。豊臣秀吉に仕えた武将且元であるが、次第に仲間から徳川方と疑惑の目を向けられ、命を狙われるに及び、やむなく徳川に属するようになった。

 慶長一九年(一六一四)大坂冬の陣で龍慶は徳川方として戦い、備前嶋で傷を負った。三年後、やっと傷の癒えた龍慶は将軍秀忠に訴状を提出、五百石を拝領、右筆になった。数年して家光が将軍に就任、次第に側近として重用されるようになった。

 彼は茶道に達し、書を能くし、和歌に優れ、能を演ずる教養人として常に家光を補佐した。

 寛永一〇年(一六三三)家督を子重政に譲り、剃髪、隠居。これは自由な立場で家光に仕えるための方便。二年後には牛込に三十町余の地を拝領、家光から拝領した菅原道真自作の尊像を祀って牛込天神社を造営。以後、屋敷に家光を迎え、狩りの獲物を調理、酒宴を催すこと一三回。しかし、寛永一六年一二月の訪問を境にして家光との関わりを示す記録はぷっつりと途絶えている。これを裏書きするように、寛永一九年(一六四二)四月、親しい間柄の沢庵和尚は知人への便りで「龍慶らは将軍のご機嫌を損ね、御成が途絶えているので、将軍の周囲の者たちもそうならないよう大層な気配りをしている」と伝えている。

 龍慶の失脚理由に、(1)『古老茶話』に「龍慶の高田下屋敷に家光の御成が度々あったが、将軍の御座敷の下に乞食が臥せていたのが判明、よってご機嫌あしく、そのまま帰城されたのが最後になった。」、(2) 『大江戸春秋』に「龍慶の屋敷内にある天神別当族一八人が高田馬場片脇において獄門になった。」とある。理由は述べられていないが、龍慶生前の『正保江戸図』(下図)の天神町北部に「天神」「別当」がある。「天神」は牛込天神社、「別当」は寛永九年(一六三二)起立の真定院である。現在の天神町七五の北野神社とほぼ同じ場所である。

 しかし、正保二年(一六四五)龍慶が没すると牛込西部は済松寺開基の祖心尼に与えられ、牛込天神社は穴八幡下に移された。跡地は稲荷となり、のちにこの辺りを抱屋敷とする徳川御三卿の清水家家臣たちによって祀られたという。(つづく)

Copyright (c) 公益社団法人新宿法人会
TOP   プライバシーポリシー   お問い合わせ