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 西早稲田二丁目の水稲荷神社社殿の後ろにひっそりと北野天満宮の小社がある。社前の石手洗鉢には「奉寄進 天満宮御宝前 牛込天竜山真定院 貞享三丙寅年三月廿五日 施主亀岡氏政郷 中村氏喜佐」と刻まれている。貞享三年は一六八六年なので今から三百二十三年前に寄進された石手洗鉢で、縁には幾つもの窪みが残されている。これは子供たちが小鳥を捕らえるための鳥黐を作るために黐の木の樹皮を搗いた跡とのことで、子供たちは目を輝かせ、夢中で搗いたのであろう。

 ところで、牛込天竜山真定院は何処にあったのであろうか? 探すと天保七年(一八三六)に刊行された『江戸名所図会』に「高田天満宮」として説明され、絵まで出ている。なお、よく見ると、石手洗鉢も描かれているのである。しかし、時代的に合致するのか不明。『嘉陵紀行』によると、高田天満宮は延宝三年(一六七五)に穴八幡下(現在の早大文学部あたり)から穴八幡の裏手(現在の新宿区西早稲田二丁目三東部)に遷された、という。『嘉陵紀行』は、史跡巡りを趣味とする清水家の用人村尾正靖(号嘉陵)が著し、なおかつ、天保二年(一八三一)八月(『江戸名所図会』が刊行される五年前)に彼は高田天満宮を訪ね、この石手洗鉢で口を漱ぎ、手を清めて参詣し、真定院の老院主観月から天満宮の縁起を聞き、三代将軍家光が座右に置いて尊崇したという菅原道実自作の尊像を拝し、色褪せ傷んではいるが由緒ある三十六歌仙の額ほかを拝見している。

 早稲田通りに面し、穴八幡裏門近くのビルの間に「大安楽寺墓地」の表示を見付け、路地を進むと突き当たりは墓地であった。かつての真定院墓地で、院主たちの五輪塔、卵塔がある。これが現在、大安楽寺墓地となった理由については後で触れることにする。

 ところで、重嶺は明治十一年に一切の公職を退き、屋敷を牛込区山伏町六(現新宿区南山伏町一)に構え、趣味を楽しむことにした。

 天満宮と早稲田・牛込との関わりは極めて深い。まずその変遷を略述し、次号以降に地域との関わりを述べることとする。

 ①大友義延、天神町辺に太宰府天満宮を勧請。②寛永十二年(一六三五)大橋龍慶は牛込に三十町余の地を与えられ、翌年には家光より拝領の菅原道実自作尊像を祀って牛込天神社を造営、三十六歌仙の絵を奉納。③正保二年(一六四五)龍慶が没し、翌年牛込の領地は祖心尼(済松寺領)に与えられ、牛込天神社は穴八幡下に移転。④延宝三年(一六七五)この地が尾張藩戸山屋敷に取り込まれるため、穴八幡の裏手に移りされ、高田天満宮となり、⑤明治に入ると廃仏毀釈によって神社を管理する真定院を失い、荒れ果て、明治二十三年(一八九〇)程近い水稲荷の境内に移され、⑥昭和三八年早稲田大学の敷地拡張のため現在地に移転、北野天満宮となった。

高田天満宮(天保7年)と現在の石手洗鉢
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