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宍戸(ししど)藩は藩主松平頼徳(よりのり)の切腹によって領地を没収されて取り潰され、父頼位(よりたか)は他藩に預けられた。しかし、三年後の明治元年には新政府によって旧領を回復、のちに子爵を授けられた。 亮朝院には現在「宍戸松平家之墓」がある。 かつて、宍戸藩上屋敷は現在の椿山(ちんざん)荘の北側、目白通りを隔てた文京区関口三丁目一六、一七のカテドラルマリア大聖堂、関口台図書館の敷地に当たり、幕末には勤王の志士たちが出入りしていたという。下屋敷は目白通りに不忍(しのばず)通りが突き当たる辺りから南に下る斜面、亮朝院から徒歩十分程の現在の豊島区高田一丁目二三、三三、四〇にあたる細長い屋敷であった。 さて、遅蒔(おそま)きながら亮朝院について触れることにしよう。亮朝院は日蓮宗身延山久遠寺(くおんじ)の霊地七面山で三百日の荒行をした日暉(にっき)上人が五明(ごみょう)村(現在の戸山町)に七面尊像を祀り、将軍家の武運長久と天下泰平を祈願した所である。霊験があるというので大奥に勤める老女能勢近江(のせおうみ)の援助で七面堂が設けられた。明暦元年(一六五五)には将軍家の祈祷所となり、将軍家綱の自筆「南無七面大明神」の書を賜り、ついで三十間四方の社地を拝領、寺院が開かれた。寛文十一年(一六七一)ここが尾張家の屋敷地に含まれることになり、代地として馬場崎(現在の新宿区西早稲田三丁目一六)に移された。以後、幕末まで将軍家祈祷所は続いた。これを示す赤門によって人々から「赤門さん」と呼ばれ、赤門が現存する。 能勢近江は能勢摂津守(せっつのかみ)信次の娘。能勢頼資(よりもと)と結婚するが、死別して大奥に仕えるようになり、老女に進んで三代将軍家光、四代家綱に仕え、大奥での権勢は幕閣なみであったといわれる。五百俵・十人扶持。寛文十年(一六七〇)一月二七日、六十七歳没。 鐘楼門の近くに美濃高富(みのたかとみ)藩一万石の本庄安芸守道貫(あきのかみみちつら)および奥方蕃(しげ)の笠付の立派な墓がある。背面には「本庄家殿主道貫公松平伊豆守男若年寄勤役中卒/大正五年五月六日浅草区田島町浄土宗安養寺ヨリ土葬ノ儘当院へ改葬ス/先代老母ノ意志ニ基キ石原良次郎行之」と刻まれている。道貫は三河吉田蕃七万石の老中松平伊豆守信明(のぶあきら)の四男に生まれ、本庄家の婿養子になり、若年寄を勤めた人物。没年が安政五年(一八五八)なので、墓は五十八年後にここに改葬されたことになる。その理由ははっきりしない。 墓域に硯(すずり)形をした「玉川(ぎょくせん)金谷先生之墓」がある。玉川は松崎観海(かんかい)(太田南畝(なんぼ)の儒学の師)に学び、詩文に優れ、和歌山藩の藩校学習館教授を勤めた。寛政十一年(一七九九)、四十一歳没。 七面堂の前にある一対(つい)の阿吽(あうん)形をした金剛力士石像は宝永二年(一七〇五)に作られたもので、区の文化財に指定されている。寺にはこの他、文化財として創設当初から残された貴重な亮朝院文書、また、元禄十五年(一七〇二)鋳造された江戸鋳物師(いもじ)の優れた技術を示す梵鐘(ぼんしょう)がある。
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