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西早稲田三丁目の亮朝院(りょうちょういん)の鐘楼門を潜り、その先の石段右手に自然石の石碑がある。何気なく見ると表に「贈従三位大炊頭(おおいのかみ)松平頼徳卿(よりのりきょう)記念碑」と刻まれている。高さ二メートル三十センチ余り。後ろに回って見ると「奉修先君五十回御忌正当供養(くよう)」とあり、上に「殉死者氏名」その下に多くの人達の名前が彫られ、最後に「大正二年十月五日 旧宍戸藩(ししどはん) 伸誼会員(しんぎかいいん)謹建」とある。 「殉死者氏名」「旧宍戸藩」という文字に秘められた歴史を感じ、早速、ご住職にいわれをお訊ねした。水戸藩の支藩宍戸松平家(一万石、陣屋が茨城県友部)の江戸菩提寺であるとのこと。また、記念碑に並んで右側に小さな石碑がある。傷んでいるので判読困難であるが、宍戸とか亮朝院の文字が辛うじて判る程度で日付不明。それに位牌堂(いはい)に松平家関係の白木の位牌(水戸家は神道のため木主(ぼくしゅ)とか御神位(ごしんい)と称するらしい)が祀(まつ)られている。 まず、碑文から推測することにした。大正二年(一九一三年)に五十回忌の法事が営まれたとすると、松平頼徳卿の没年は元治元年(一八六四年)に当たる。この頃の水戸での大きな事件は「天狗党(てんぐとう)事件」である。ついで記念碑背面の殉死者は六十二名。石碑が破損していないため写真撮影によって全員氏名が判明。その後、どうせ無駄骨であろうと思いながら、『幕末維新全殉難者名鑑』を当たってみた。ところが、何と全員の名前が見つかったのである。おまけに、死亡の年月日、死因、年齢などが記載されていた(一名名前不一致)。死因は、?切腹(せっぷく)(7名)、?斬首(ざんしゅ)(27名)、?獄死(病死(ごくし)、餓死(がし))(22名)、?戦死(6名)となっている。 斬首、獄死は罪人として処刑されたことを意味している。どうして、このように多くの宍戸藩の家臣たちは死ななければならなかったのか、その真相を是非とも知りたいところである。 手っとり早く『日本史事典』で「天狗党の乱」をみると、次のように述べられている。 “幕末、水戸藩の尊王攘夷派志士の挙兵事件。徳川斉昭(なりあき)の時代から水戸藩内の党争が激化し、尊攘派は天狗党と称して保守派の諸生党と対立していた。文久三年(一八六三)八月十八日の政変で尊王攘夷運動が挫折すると、翌元治元年(一八六四)、天狗党首藤田小四郎らは筑波山に挙兵、一時勢力を得たが、幕府の追討軍に敗北した。さらに武田耕雲斎を主将に西上したが加賀藩に降伏、幕命により藤田・武田らが処刑された。” このサイドラインの時期(元治元年)、宍戸藩主松平頼徳は水戸藩主慶篤(よしあつ)の名代(みょうだい)として水戸周辺の鎮圧に赴くが、僅か二ケ月で幕府から切腹を命ぜられるという悲劇に見舞われたのであった。
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