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十二、三歳で孤児になったむめは騙されて売春婦に売り飛ばされ、苦労の末、三十歳近くになってやっとほっとした。ところがヒモ伝吉が付いて再び苦海に投げ込まれそうになって発生した事件であった。
むめに暴力を振るう伝吉を角筈村の叔父源蔵は近隣住民の協力によって取り押さえ、安易に処分を代官所にまかせようと考えた。しかし、やっとの思いで犯人を捕らえたが、役所は規則に則って訴状を提出するまで村の責任で犯人を拘留し、凶器(小刀)を保管するよう命じた。なお、裁判には「吟味筋」(社会秩序に関わる犯罪)と「出入筋」(私的な争いの裁定)とがあり、当事件は出入筋に当たるので裁判に必要な費用、たとえば付添いの名主や家主の弁当代、茶代をはじめ諸雑費を訴人である源蔵が負担しなければならず、取調べのために満足に働くこともできないだろうとのことであった。その日暮らしの源蔵にとってはとんでもないことである。
すぐに訴状と一緒に証拠物件の預かり証、内済(示談)にしたいので取調べの延期を懇願する文書と都合三通を事件の翌六月十五日に提出した。また、角筈村は大貫次右衛門代官所、伝吉の住む内藤新宿は篠山十兵衛代官所と管轄が違うので取調べには両者の立会いが必要である。文書に連名で署名した名主・五人組(隣組長)・家主も訴訟に持ち込むことによって大変な手間と金を必要とするのを知り、こぞって示談を勧めたであろう。
地域の有力者に扱人(調停人)を頼み、事件性を極力薄め、示談の成立を急いだ。こうして、三日後に示談条件を示した願書が提出された。最初の訴状では手鎖人伝吉が相手伝吉に変わり、むめを伝吉(ヒモであった)の妹分として以後源吉が世話し、伝吉には他所から女房を貰って祝言させる。事件の暴力沙汰は口論に書換えられ、刃物や悪口雑言は伏せられ、売春は一切触れられていない。
次に七月一日、内済が成立した「済口証文」、同時に勘定奉行松平兵庫守様に伺いの上、お願いの通り訴状の取り下げを頂いたことを謹んでお請け致しました、という「請書」を提出して事件は落着した。被害者が相手に平身低頭して言いなりになり、僅か半月で決着したが、何とも寝覚めの悪い決着である。
この後、『渡辺家文書』の中に明治三年の、喜之助からむめ宛の領収書(「請取り申す祝金の事」百五両。農地の売買が許されなかったので祝金の名目)と譲渡証(「譲り渡し申す地面証文の事」)という二通を発見した。二人の名前はかつての事件関係者と同じである。これは偶然であって、実際には関わりない二人かも知れない。だが、裕福になった八十余歳のむめが昔世話になった喜之助(内藤新宿の旅籠屋主人)のため恩返しに土地を高値で買い取ってあげたと考えれば救われるのではなかろうか。
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