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大正八年、神田から小石川駕籠町の借家に移った。丁度この頃、第一次世界大戦が勃発、好況を見込んだ彼は三千円を調達して株を買い、僅かの間に三〇万円儲けた。当時としては法外な大金であった。ところが、翌年三月に大戦が終結して株が大暴落。辛うじて三〇円を手元に残すことができたという。十年一月、池袋に転居。四月から早稲田大学文学部英文科講師を委嘱され、柏木町四三三(現新宿区北新宿一-二六)に転居。この頃、北原白秋との間に童謡論争が展開された。
大正十二年九月一日昼頃、関東大震災が発生。八十は家の近くの岡本という床屋で散髪中でまだ途中であったが、家には老母と幼い女児二人と女中二人ばかりで心配になり走って帰った。幸いに負傷者がないので余震が落ちつくと入院中の妻が心配なので池袋の病院に駆けつけ、無事を確認すると、今度は月島に住む兄の安否を尋ねたが、目的地に辿り着けないままに上野の山内で夜を明かすことになった。恐怖と不安でごった返す罹災者の群れの中、突然、少年がハーモニカを吹きだした。人々はメロデーを求めて次第に集まり、大きな人垣になった。恐怖と絶望の中で歌謡に安らぎを見つけた人々の心情は彼の心に深く刻まれたという。
大正十三年四月、パリ留学のため神戸から出帆。十五年、パリの生活に別れを告げ、二月に帰国。早大仏文科助教授になる。
昭和三年、「当世銀座節」「マノン・レスコオの唄」を発表。中山晋平の作曲希望により、中山とコンビを組むことになった。翌年菊池寛の「東京行進曲」を日活が映画化するに当たり、主題歌の作詞を依頼され、中山晋平の作曲でレコード化され、大ヒットした。次いで「愛して頂戴」「唐人お吉」、童謡「毬と殿様」「お菓子と娘」と続き、六年二月、教授に昇進、この職は終戦まで続けられた。
昭和十年四月、十二年余を過ごした柏木町四三三から新宿税務署にすぐ近い同町三七七(現新宿区北新宿一-二三)〔写真〕に土地を購入して転居。この年の所得税納税番付で文筆家の東大関に名前が挙げられている。
この後、「愛染かつら」「支那の夜」「旅の夜風」「純情二重奏」「誰か故郷を想はざる」「蘇州夜曲」「湖畔の乙女」などを作詞、年配の戦前派には懐かしい歌詞とメロディーが蘇るものばかりである。
十九年一月、柏木町三丁目三七七の家を売却して茨城県下館町に疎開。戦後は世田谷区成城に住むようになったので、柏木には通算二一年間過ごしたことになる。
この稿の作成にあたり新宿歴史博物館のご指導を頂きました。厚くお礼申し上げます。
西条八十の屋敷があった北新宿1丁目23(昭和10〜19年)
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