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  十二社周辺と伊丹家  
 柏木村・角筈村(現在の北新宿および西新宿)は家康の関東入国後、伊丹康勝の知行として与えられた。彼は慶長一七年(一六一二)に田圃の灌漑のために十二社の大小二つの池を開鑿し、新田の開発に意欲を燃やした。二〇歳少し過ぎた頃であった。
 ここに登場する伊丹康勝は清水(静岡県)で生まれた。父康直は今川家に仕えてしばしば戦功を上げたが、主家の没落により武田家に仕えて船大将を勤め、やがて武田家没落。家康に見込まれて清水の船奉行を勤めた。丁度この頃生まれたのが三男康勝(喜之助)であった。一二歳で秀忠(のちの二代将軍)の側近に仕え、決断の早い利口な少年として認められ、やがて納戸頭に進み、五百石(多摩郡・相模大住都の内、柏木村・角筈村を含む)を拝領。関が原の戦や大坂の陣に兵糧・武器の輸送を担当して特異な才能を発揮、時には戦陣に加わって武功を挙げ、褒美を頂戴している。
 次第に戦乱が収まり、世の中が穏やかになると、幕閣内での主導権争いが激しくなり、当時幕政の実権を握っていた本多正純が失脚させられた。宇都宮の釣天井事件である。将軍の暗殺を企てたという正純を陥れるための根も葉もない捏造である。ここで使者として言い逃れを封じて判決を言い渡す役目を康勝と高木九兵衛が命ぜられた。相手の言い逃れを絶対に許さない度胸と機転が要求される役目であるが、康勝は見事なし遂げたのである。この褒美として牛込佐渡原(現在の新宿区山伏町)に一万五千三百坪の下屋敷を拝領した。しばらくして秀忠村から三代将軍家光に属することになり、寛永五年(一六二八)、柏木村・角筈村を含め、以前に拝領した知行地は下総(現在の千葉県)に移され、九千石に加増された。柏木村・角筈村は共に幕府直轄地(天領)として代官支配になるが、柏木村は寛永一一年(一六三四)に春日局(麟祥院領)に与えられ、幕末に至っている。
 ところで、康勝は幕府から豪腕を買われ、寛永九年(一六三二)熊本に赴き、加藤清正の跡を継いだ熊本城主加藤肥後守忠広の幕法違反を理由に五一万石余を一万石に減封する旨を命じ、将軍家光にますます重用されるようになった。翌年、甲府城を預けられ、三千石加増されて一万二千石の大名になり、甲斐に領地を移されている。次第に幕政に参画するようになり、勘定奉行、幕臣の知行配分、佐渡および金山の支配、島原の乱の人馬輸送、国々の境界争いの裁定など多忙を極め、頭髪が薄くなったのを理由に剃髪し、順斎と号した。古絵図の山伏町に伊丹順斎と書かれている。
 いずれにしても、順斎が破格の出世をする足掛かりは若い頃の十二社池の堀鑿成功の自信にあったのでは無かろうか。
「十二荘菖蒲の」—図松斉芳宗画 新宿歴史博物館『常設展示図録』
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