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「無明橋」碑、山岡鉄舟書、観音寺 
  小滝橋の近く、高田馬場三丁目に真言宗の観音寺がある。山門を入って本堂左手に人の背丈ほどの高さの自然石に「無明橋」と刻んだ石碑がある。よく見ると山岡鉄舟書ときざまれている。何か曰く因縁があるのではと和尚さんに尋ねてみたが、不明とのことであった。
 その後、忘れていたが、最近になって「明治四年頃、鉄舟は静岡から東京に戻ると、柏木淀橋に住むようになり、やがて明治天皇の侍従になった」という記事を偶然に見つけた。鉄舟の存在を身近に感じて調べると現在の中野区中央一丁目一七に高歩院・鉄舟会禅道場があることが判明した。百年以上を経過した現在でもゆかりの建物があるのに驚かされた。高歩は鉄舟の号である明治六年五月、皇居が炎上、鉄舟は寝巻きのままここから駆け付けたという。赤坂離宮(赤坂御所)が仮皇居になると鉄舟は危急の場合に備えて近くである四谷(現新宿区若葉一丁目学習院初等科敷地)に転居した。
 ところで、「無明橋」の「無明」について、『広辞苑』を当たると「三惑の一。邪見・妄執のために、一切諸方の真理にくらいこと。真如(実体。真相。真実)に対する無智。煩悩。不覚。」石碑の背面に「明治二十一年三月二十一日建之」と刻まれている。彼は同年二月あたりから病状(胃癌)が悪化し、流動食のみであった。無明橋を渡り、真如の彼岸への到達を考えていたのであろうか。同年七月十九日、身体を清め、白衣に着替えて座禅を組み、静かに大往生を遂げた。五十二歳。
 順序が逆になったが、鉄舟の生い立ちを簡単に述べることにしよう。
 鉄舟は、天保七年(一八三六)、旗本六百石の蔵奉行小野朝右衛門高富と磯(常陸鹿島神宮の神官塚原石見の二女)を父母として両国橋近くの蔵奉行役宅で生まれた。しかし、すでに腹違いの兄姉五人がいたが、父が余りに若い磯と結婚したために彼らは母とは認めなかった。のちに弟が五人生まれている。
 弘化二年(一八四五)父高富は飛騨郡代として高山に赴任、鉄舟(鉄太郎、一〇歳)も家族共々従う。
 嘉永四年(一八五一)九月、母が脳卒中で死亡、享年四一歳。翌五年二月二十七日父高富病没、享年七九歳。半年も経たないうちに両親を失い、鉄太郎は十七歳で弟たち五人の面倒をみることになった。七月に高山を引き上げ、小日向一丁目の小野家拝領屋敷に住むことになった。
安政二年(一八五五)千葉周作の玄武館に入門、忍心流山岡静山に槍術を学び始めた。僅か三ヶ月で静山は急逝するが、精神的な影響が大きく、静山の妹英子と結婚(鉄舟二〇歳、英子一七歳)。やがて清川八郎らの虎尾の会(尊皇攘夷党)に参加、次第に歴史の表舞台に登場するようになった。
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