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順序が逆になりましたが、岡本綺堂は明治五年に旧幕臣岡本純の長男として高輪の泉岳寺近くで生まれ、本名敬二。府立一中卒業まじかに家庭の事情で退学、新聞社の編集見習として就職、塚原渋柿園(歴史小説の創始者、新宿区若松町の宝祥寺に墓)に教えを受けた。以来二四年間、各社を転々、主として演劇の批評(劇評)を担当したが、大正二年、四二歳で記者生活をやめて劇作に専心することにした。作品は好評につぐ好評、大劇場での上演が続き、新歌舞伎の第一人者となった。同時に大衆小説も手掛けるが、中でも大正六年に始まる「半七捕物帳」はいわゆる推理小説ではなく、江戸の風俗や人情に哀惜の念を交えた人情話で、内容は神田三河町に住む岡っ引半七が、幕末の二十数年間十手を預かっての出来事を老後の茶飲み話として筆者に語るという形がとられている。 綺堂は百人町に転居する二ヶ月前の大正十三年一月から「半七捕物帳」の姉妹篇のような形で「三浦老人昔話」の執筆を始め、雑誌『苦楽』(編集長は川口松太郎)に連載されるようになった。話は正月に半七老人を訪ねた筆者がたまたま来客中の三浦老人を紹介され、これが縁で大久保に住む三浦老人を訪ねて昔話を聞く形式がとられている。三浦老人はかつて下谷の大屋。こうしてみると、三浦老人が大久保に住んでいたという設定は、綺堂がすでに大久保についてよく知っていたためなのか、それとも大久保と設定したので百人町に引っ越したのか不明である。 大久保での一年三ヶ月間の生活は彼の人生で最も充実した時期にあたり、この間の発表原稿は、戯曲・小説・随筆など多数にのぼり、多い月には三百枚位書いている。こんな多忙な中にあっても彼は一日二、三人から四、五人の来客と快く応対している。また、几帳面な彼は誰からの便りにも必ず返事を書き、それが毎日五、六通はあった。 ![]() この間の大きな出来事としては、四月二九日の火事であった。寝入りばな、急に表がさわがしく、火事だ!火事だ!と叫んで門を叩く者がある。飛び起きて北の窓を見ると、明治製菓の大建物が一面の火の海になっている。距離があまり遠くない上に、相当に風もある。いささか不安を感じ、家内の者と一緒に起きて外に出る。火の粉は西大久保の方へ専ら降りかかるらしい・・・。 翌四月三〇日、製菓会社は千五百坪の建物を焼いて、その損害五十万円に上るということであった。焼跡の余燼はまだ消えないで、雨の中で燃えていた。 一四年六月二一日、半蔵門に程近い麹町一丁目一番地の借家に馬力二台と牛車一台、それに荷車に荷物を積込んで引越す。震災に遭った旧宅地の区画整理がほぼ確定したので新築の準備に取りかかるためであった。 |
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