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下宿屋「緑館」跡(現新宿区西早稲田3丁目)
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江戸川乱歩というペンネームは探偵小説の創始者エドガア・アラン・ポーをもじり、近くを流れる江戸川に因んだという。
ところで、乱歩が暇をもてあまして探偵小説を書きはじめた大正一二年頃には「探偵小説は、日本では生活環境から作者や読者の科学的知識・推理力が不足しているので恐らく普及しないであろう」と考えられていたが、それから僅か数年後、乱歩は探偵小説の先駆者として探偵小説ブームの火付け役となった。昭和二年三月、乱歩は早大正門前の下宿屋「築陽館」を権利金二千二百円、家賃九十五円の契約で入手、学校に近い所為か幸いに下宿人は直ぐに埋まり、子供(隆太郎)は鶴巻小学校に通い始めた。一応生活の安定をみた時点で下宿屋の経営を妻に任せ、彼は健康上の理由として休筆宣言をし、日本海沿岸などをはじめ各地を放浪した。創作上の行き詰まりと厭人癖に悩んだ挙げ句であった。しかし、一〇月には平凡社の『現代大衆文学全集』第三巻として「江戸川乱歩集」が刊行され、一六万部余が売れ、印税は一万六千円余になった。予想外の収入に気をよくし、もう少しましな下宿屋を計画、僅か一年後の三年三月、この下宿を人に譲り、取り敢えず、戸塚町諏訪一一五(現新宿区高田馬場一丁目一〇、玄国寺入口右手)の借家に移った。そして、戸塚町源兵衛一七九(現新宿区西早稲田三丁目二七—六、七。早稲田通りと明治通りとの交差点を早稲田大学方向に最初の路地を左に入った右手)百七十坪を購入した。ここは福助足袋の元社員寮であった。早速、田舎(三重県)から親戚の大工さんを呼んで二一室の下宿屋に大改造、『緑館』と名付け、他に別棟の二階家を新築、一階を私用の応接室、二階を居室兼書斎とした。書斎は窓が殆どなく、昼間でも密室めいて薄暗く、読んだり書いたりするにも十燭以上の電球は使わなかったという。のちに一〇室を増築して三一室とした。
昭和四年、出版四社から探偵小説全集六種が出版され、探偵本の大ブーム。これに従って彼は六年あたりまで第二の多作期に入った。
昭和六年一一月下宿屋「緑館」で下宿学生との争議が起こった。乱歩は例の人嫌いで下宿人と顔を合わせないようにしていたので、外で行き合っても挨拶をしない、奥さんも文筆関係の客との応接に追われて下宿人に愛想をいわない、下宿屋の仕事は女中任せ、電話は下宿玄関の階段脇に一本しかなく、家の者が大きな声で出版社や新聞社に応対するのが下宿人に筒抜けに聞こえ、多忙な流行作家として下宿人を無視している、食い物が不味い、下宿料が高い、など下宿人たちは箇条書にして待遇改善を求めた。また、これが面白可笑しく新聞に報道されると、面倒になって下宿の廃業を決めた。
昭和七年三月に二回目の休筆宣言。関西・東北などを旅行して一年七ヶ月後に復帰、長篇「悪霊」を書き始めるが思うように筆が進まず苦悶するが、三回の執筆で中絶を余儀なくされた。この年、市域拡張により戸塚町源兵衛は淀橋区戸塚町二丁目と地名変更。
昭和八年四月、『緑館』の建物を売却して芝区車町に転居。やがて池袋に移っている。昭和四〇年七月二八日没、享年七一歳。
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