昨年八月から一〇月にかけて「江戸川乱歩」について幾つかのイベントが池袋で開かれた。戦災を免れた旧乱歩邸の修復完成を記念するものであった。
ところで、乱歩と新宿区との関わりは余り知られていない。彼の人生前半、特に区内に住んでいた波瀾に満ちた時期について追ってみることにしよう。
江戸川乱歩(本名平井太郎)は明治二七年一〇月二一日、三重県名張町で生まれた。中学卒業の頃、父が事業に失敗して朝鮮に渡ったので苦学の決心をして上京、早稲田大学の予科に編入試験を受けて入り、一年ほどは働きながら学校に通った。大正二年の春、母方の祖母が喜久井町に小さな家を借りて二人で暮らすことにしてくれたので、しばらくは自分で稼ぐ必要がなくなり、近くの貸本屋から探偵物を借りて読みだすと面白くなり、やがて専門の経済学の勉強をそっちのけにし、図書館通いして翻訳物の探偵小説を耽読するようになった。
大正五年八月に政治経済学部を卒業。大阪の貿易会社に就職するが、長続きせず、仕事を転々として東京と大阪との転住を繰り返し、大正八年に本郷団子坂で弟二人と古本屋「三人書房」を開業、一一月に村山隆子と結婚、翌々一〇年に長男隆太郎が誕生。古本屋がうまく行かないままに廃業して親子三人で大阪の父の所に居候。半年にわたる失業、タバコ銭にも不自由する中で書いたのが処女作「二銭銅貨」および「一枚の切符」であった。自信のないままに翻訳探偵小説を載せている博文館発行の『新青年』に投稿した。幸運にも編集長森下雨村の目に止まり、「外国の作品に劣らぬ日本の本格的探偵小説」と褒められ、大正一二年三月、「二銭銅貨」が『新青年』に発表された。これを契機として森下は翻訳探偵物から日本独自の探偵小説への転換を企図、数年後の爆発的な探偵小説の大ブームにつながったといわれる。勿論、当時、誰もが予想だにしていなかった。乱歩は自信を得て次第に作家たちと交際をするようになった。一年おいて「D坂の殺人事件」(この中で初めて名探偵明智小五郎が登場、モデルは講釈師の伯竜)、「心理試験」「黒手組」「白昼夢」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」など一七篇を発表。作家として独立。読売新聞の「大衆作家列伝」に掲載された。
大正一五年一月、大阪より築土八幡町三二(現新宿区築土八幡町六—一四)に転居。この年は乱歩の作家生活の中でも多彩な時であった。長編小説「闇に蠢く」「湖畔亭事件」「空気男」「パノラマ島奇談」「一寸法師」(初めての新聞連載)の五篇、短編「毒草」「五階の窓」「鏡地獄」など一一篇、他に随筆と書きまくっている。翌昭和二年一月頃、平凡社の下中弥三郎社長が支配人と訪ねてきた。『現代大衆文学全集』出版についての協力要請であった。間もないこの年の三月、早大正門前の戸塚町下戸塚六二(現新宿区戸塚町一丁目一〇四、東北角)にある下宿屋『築陽館』を入手した。洋風三階建て、和室一五室であった。
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下宿屋『築陽館』跡(現新宿区戸塚町1丁目) |
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