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 新宿大ガードから西に、青梅街道を三百メートル程行くと右手に常円寺がある。山門を潜って本堂前を右へ墓地に入り、そのまま進むとビル建設工事の壁近くに「筒井政憲の墓」がある。新宿区の史跡に指定されているが周辺には説明板はない。墓石は大分風化して痛み、文字が判読し辛くなっているが、墓前の石塔に奉献「南町奉行所与力 蜂屋新五郎昌備」、裏に「安政六年己未六月」と刻まれているので、南町奉行を勤めた筒井政憲の墓であることが判る。
 筒井政憲は安永七年(一七七八)、旗本五千百石余の久世広景の二男として千代田区二番町の日本テレビ南側の屋敷で生まれた。久世家は代々三四郎を名乗る武勇の家柄として知られ、五代広当は大久保百人組(二十五騎組)の頭として大久保(現新宿区歌舞伎町二丁目、新宿職安から大久保病院あたりにかけて)に抱屋敷一万二千坪余を拝領、百人町に接して幕末まで所有していた。また、娘は内藤大和守(現新宿御苑が屋敷)の室になっている。ところで、政憲は幼いころから文武に励み、特に昌平坂学問所での成績は抜群であった。二十歳の時、見込まれて旗本筒井正盈(二千二百石)の養子になり、享和三年(一八〇三)幕府学問試験甲科に主席で及第、部屋住みのまま(家督の相続なく)二丸留守居として学問所林大学頭の差障りのある時には代わって将軍の前で講釈する役に就いた。ある祝儀で上位の役人は江戸城内で御料理を頂戴することになり、政憲はこの栄誉に浴した。しかし、養父正盈は進物番として料理の配膳役を勤め、親子の立場が逆転して話題になったという。この件が将軍の耳に入り、養父は御徒頭(組屋敷は下谷三味線堀)に任命された。翌年、政憲も御徒頭(組屋敷は新宿区北町)になり、ついで目付に進んだ。この少し前、養父は家督を政憲に譲って隠居している。長幼の序を重んずる当時にあっては止む得なかったのであろう。文化十四年(一八一七)七月、長崎奉行に抜擢され、和泉守に叙任した。奉行は役料が四千四百俵つき、他に輸入された希望の品を原価に近い廉価で先買いできる特権と、八朔銀といって貿易商人や地役人から寸志の金品を公然と収納できる莫大な役得があった。しかし、彼の三年半の在任中は清廉の人として長崎の市民から慕われ、諏訪社に彼の武運長久を祈る額面が奉納されたという。文政四年(一八二一年)一月、江戸町奉行荒尾成章が問題があって在職一年足らずで解任されると、急遽、政憲が町奉行に任命された。長崎奉行には土方勝政が新たに就任したが、一ヵ月程すると新任奉行の処置に不満の長崎唐人屋敷の中国人たちが大挙して奉行所に乱入する事件が発生している。寛容な態度で臨む政憲と新任の奉行の処置に大きな差があったためという。次回は江戸時代を通じて町奉行在職期間が最長であった政憲、幕末の多難な外交問題に対処した政憲について述べることにしよう。


常円寺山門(新宿区西新宿7-12-5)
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