![]() |
||
![]() |
||
江原素六は一一歳の時家族と共に四谷愛住町に転居、近くの池谷福太郎の塾に通い始めた。手習い(習字)をする素六は、傍らの年長の少年が論語を素読するのを聞き、これを暗唱、先生の質問に答え兼ねている少年のために脇から小声で教えたという。聡明な素六の将来を思う先生は江原家を訪ね、父親源吾に素六の本格的な学問をすることを勧めた。父は頑強に学問の不要を主張、怒りだす始末。しかし、度重なる先生夫妻の説得に我を折り、就学を許した。相変わらず房楊枝の内職をしながら学問に励み、一五歳で幕府の学問所(昌平 幕末迫って将軍にしたがって西上するが、慶応四年一月江戸に帰着、四月にはあ撒兵頭(のちの大佐クラス)になり、戦争の無意味さを説くが、部下たちの暴発によって下総八幡(千葉県市川市)で新政府軍と戦うことになり、左足に三個の貫通銃創を受けた。賊軍となった素六は部下たちに背負われて各所に隠れ、四〇日後、やっと四谷の自宅に戻り着いた。その間、化膿した傷口から自分で膿を絞り、銃創に縄を通して洗浄したという。かつて蘭医書で読んだ医学知識が頼りであった。幸いに疵は快方に向かったが、依然として政府軍の追求は厳しく、旧友を頼って潜伏を続けた。八月、駿河田中(静岡県藤枝市)に至り、ついで沼津に移り、沼津兵学校の設立に尽力した。明治四年海外視察。明治五年川村縫子と結婚。縫子の祖父川村清兵衛修就は長崎奉行を務めた五千石の旗本(新宿二丁目の正受院に墓)、父順次郎の屋敷は富久町に四千二〇〇坪。明治二八年、五四歳で麻布中学校を設立、校長になる。大正一一年五月、恒例の修学旅行に同行、帰京した素六は過激なスケジュールをこなして帰宅、頭痛を訴えて昏倒し、翌二〇日、八〇歳で急逝した。 |
||
![]() |