社団法人新宿法人会
サイト内検索 powered by Google
サイト内 Web
おまけの便利LINK マルチ辞書  |  地図  |  乗換案内
広報誌
広報誌「しんじゅく」
新宿法人会とは
ごあいさつ
活動内容
入会方法
情報公開
支部一覧
アクセス
会員紹介
部会ご紹介
青年部会
女性部会
源泉部会
会員の皆様へ
研修会・講習会
事業予定
コラム
新宿歴史よもやま話
世界遺産紀行
リンク
お役立ちサイト
全国の法人会
   

江原素六

 江原素六は一一歳の時家族と共に四谷愛住町に転居、近くの池谷福太郎の塾に通い始めた。手習い(習字)をする素六は、傍らの年長の少年が論語を素読するのを聞き、これを暗唱、先生の質問に答え兼ねている少年のために脇から小声で教えたという。聡明な素六の将来を思う先生は江原家を訪ね、父親源吾に素六の本格的な学問をすることを勧めた。父は頑強に学問の不要を主張、怒りだす始末。しかし、度重なる先生夫妻の説得に我を折り、就学を許した。相変わらず房楊枝の内職をしながら学問に励み、一五歳で幕府の学問所(昌平)試験に及第、褒美を拝領。こうして素六は恩師池谷先生によって人生の岐路を選ぶことができたのである。
 誰からも信頼される天性の魅力を備えた素六は、ふとした縁から旗本深津摂津守の知遇を受け、屋敷に出入りし、時には従者として幕府顕官の屋敷や会合などの席に臨み、別天地であった上流武家社会の見聞を広めている。一八歳の彼にとっては強烈な刺激であった。そして、深津家子弟の家庭教師をして経済的な支えを得ると内職との縁が切れ、昌平黌で漢学に励むと共に、薦められて剣客斉藤弥九郎の道場に通うようにもなった。小野久弥、関根良介、高島三十郎、星野格次郎、松平謹次郎、らに就いて洋書、洋式練兵も学んだ。やがて、横浜警衛などを経て講武所教授方に進むが、蟻川賢之助の塾に住み込んでここから講武所に通い、また、近くの鳥羽藩四谷中屋敷内の近藤真琴塾(のちの攻玉社学園、本塩町にあった)に通学。がむしゃらに学ぶ中で、考え方や立場の異なる友人を含めて多くの親友を得たことは彼の視野の広い柔軟な思考を可能ならしめたのであろう。

 幕末迫って将軍にしたがって西上するが、慶応四年一月江戸に帰着、四月にはあ撒兵頭(のちの大佐クラス)になり、戦争の無意味さを説くが、部下たちの暴発によって下総八幡(千葉県市川市)で新政府軍と戦うことになり、左足に三個の貫通銃創を受けた。賊軍となった素六は部下たちに背負われて各所に隠れ、四〇日後、やっと四谷の自宅に戻り着いた。その間、化膿した傷口から自分で膿を絞り、銃創に縄を通して洗浄したという。かつて蘭医書で読んだ医学知識が頼りであった。幸いに疵は快方に向かったが、依然として政府軍の追求は厳しく、旧友を頼って潜伏を続けた。八月、駿河田中(静岡県藤枝市)に至り、ついで沼津に移り、沼津兵学校の設立に尽力した。明治四年海外視察。明治五年川村縫子と結婚。縫子の祖父川村清兵衛修就は長崎奉行を務めた五千石の旗本(新宿二丁目の正受院に墓)、父順次郎の屋敷は富久町に四千二〇〇坪。明治二八年、五四歳で麻布中学校を設立、校長になる。大正一一年五月、恒例の修学旅行に同行、帰京した素六は過激なスケジュールをこなして帰宅、頭痛を訴えて昏倒し、翌二〇日、八〇歳で急逝した。
 スペースの関係で素六と新宿との関わりのみに終始したが、彼は「麻布中学校長 温厚の君子人」といわれ、「かねて代議士でもあったのに、政治的な野心など微塵もなくて、政友会の陣笠に安んじた。かねてまたクリスチャンでもあったが、その人は古武士の如くであった。何ということなしに慕わしい人だった。」という。

Copyright (c) 公益社団法人新宿法人会
TOP   プライバシーポリシー   お問い合わせ