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江原素六は幕末に新宿(角筈五十人町)生まれ、苦難の青春を四谷で過ごし、明治維新の激動に情熱と人格により人々から不思議な人望をかちえた人物である。その一つが麻布中学の創立であった。
 幕末近い「内藤新宿」の絵図を見ると、現在の新宿駅の北西、新宿通りと靖国通りに挟まれた一角に「五十人町」があり、下級幕臣の屋敷が並んでいた。この中の新宿通りに面し、フルーツ高野の斜め前、みずほ銀行新宿支店(新宿区新宿三丁目二五)あたりに素六の父「江原帯刀」(のち源吾と改名)を見つけることができる。天保一三年(一八四二)一月二九日、素六(はじめ鋳三郎)は源吾の長男としてここで生まれた。
 江原家の先祖は黒鍬者(一二俵一人扶持)であったが、六代目源五郎の時裏門切手番頭に進んで旗本になるが四〇俵という微禄、当時屋敷は牛込甲良町にあった。長男恒次郎が病弱のため孫源左衛門を七代目とし、八代目には姪ろく子を養女として聟帯刀(源吾)を迎えた。これが素六の父母である。
 ここで脇道にそれるが、素六の人格形成に影響を与えた父源吾とその実家小野家に触れておこう。源吾は姉二人、兄二人、五人兄姉の末っ子で、生まれて間もなく父が没し、三歳で母を亡くし、姉の手で育てられた。寺子屋に通うこともなく、武芸の修行もできない悲惨な状態であった。やがて長姉のき子は意を決して小野家再興のために一橋家の御殿に奉公、懸命に勤めて次第に信任厚く登用されるようになり、勤倹に努めて長弟鼎之助のために西念寺横町(現新宿区若葉一丁目)に屋敷を求め、家を建て、妻を娶らせ、職(晴光院様御侍)の斡旋に努力した。次弟善吉を三百石の旗本大沢家(現新宿区納戸町)の養子にするために三百両の持参金を用意。末弟源吾には五〇両と調度を整えて江原家に聟入りさせた、しかし、遂に健康を害し、一橋家を辞して五十人町の源吾の家に身を寄せたが、周辺の風紀の悪さに驚き、屋敷の相対替を勧め、このために六五両を与えて四谷菱屋横町(現新宿区愛住町と舟町との境の道西側)に転居させた。のちに剃髪して尼となり、黒染めの法衣を纏って罪障消滅と亡き両親の冥福を祈らんがため、杖を頼りに飄然と家出、行方も生死も知れなくなったという。弟妹のために一生を捧げ、報われないままに果敢なく消えたのき子の心情はいかばかりであったろうか。
ところで、素六は幼い頃から世間並みに寺子屋通いや稽古事は一切させてもらえず、専ら家計を助けるために房楊枝(先端を叩いて房のようにした楊枝)削りの内職の手伝いをさせられていたが、八歳の時、見かねた叔父大沢善吉の勧めでやっと内藤新宿の寺子屋に入り、やがて四谷菱屋横町に移って近くの池谷福太郎先生の塾で学ぶことになった。そして先生の慈愛に満ちた教育によって素六の才能は見出され、飛躍の人生を踏み出すことになった。

復元図 天保15年(1844)〔ゴジック体は現在〕
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