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 慶長八年(一六〇三)二月、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開設してから四百年。これを記念して昨年「江戸開府四百年」の行事が行われた。遅ればせながら、これに関連して述べることにします。
 当時、家康は先進地の畿内に幕府を設けるべきか、江戸にすべきかを迷っていた。やがて子秀忠と相談。江戸に決断。しかし、江戸城には将軍宣下の式典を行うのに相応しい建物もなく、式は伏見城で行われた。秀吉の在世当時、「天下人の城」として建設された伏見城は家康にとって憧れの的であったものと思われる。家康の将軍在職期間は意外に短く、翌々慶長十年四月、再び伏見城で秀忠に将軍職を譲るまでの二年三ケ月に過ぎない。なお、その上に伏見を拠点とし、江戸に居たのは僅か八ケ月足らず。この間、江戸との間を二往復している。
 家康は将軍宣下を受けた直後、待っていたかのように加藤清正、福島正則など大名七〇家に命じて江戸海岸埋めたての大工事を始めた。神田台を切崩した土で日比谷入江や洲を埋め立て、市街地、大名屋敷地の造成が行われた。今までは一大名として自前で工事をしなければならなかったのが、天下普請といわれる公の工事として各大名の負担による普請が可能になったのである。以後五十年間、天下普請によって江戸城の整備、拡張がなされ、大名をはじめ、その家臣、農民を含めて負担に苦しむことになった。
 当時の江戸城は現在の皇居東御苑あたりのみであったらしく、西側は局沢、東側南部の和田倉から南に新橋あたりまでは入江(日比谷入江)。その東側は新橋あたりを先端とする半島状で低湿地の多い江戸前島(外島)であった。明治時代、鉄道はこの半島部分の比較的堅牢な地盤に敷設されたという。また、皇居前の濠は江戸城の防備としてばかりではなく、入江埋立の排水路と石垣用の石や建築用材の舟運路を兼ねていた。
 ところで、日比谷入江や江戸前島について具体的に書かれた資料は殆ど残されていない。理由については謎とされている。しかし、近年の遺跡発掘調査によって除々に解明されつつある。中でも「和田倉」遺跡では日比谷入江を埋立てた四メートル余の盛土が確認され、また、「東京駅八重洲北口」遺跡では家康江戸入り間もない頃の地表と思われる湿地面の直上に建物跡、上水(水道、玉川上水が設置される以前)施設および墓跡十箇所が発見された。墓はロザリオやメダルの副葬品、十字の墨書からキリシタン墓であることが判明。やがてこの上に盛土されて大名屋敷になり、幕末には厳しく取り締まる立場の北町奉行所であったという。幕府がキリシタンを禁制にし、有馬晴信に切腹を命じたのは慶長一七年(一六一二)。したがって墓の設けられたあと、ほどなく波の打ち寄せる遠浅の日比谷入江は埋め立てられ、居住地として急速な変貌を遂げたのである。

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