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 今回は、家康の江戸入りした天正十八年(一五九〇)から幕府が開かれた慶長八年(一六〇三)までの十三年間に新宿周辺がどのように変化したのか検討してみよう。
 天正十八年四月、江戸城が落城するまでは新宿区内は小田原北条氏の支配下にあり、柏木・角筈は綾部惣四郎、落合は興津氏、牛込は大胡氏(牛込)、中里・市谷は太田新六郎、富塚(戸塚)は恒岡弾正忠の知行地であった。
 家康は江戸入りに先立って治安状況の把握と維持のために、先遣隊として内藤清成と青山忠成を命じている。「天正日記」(偽書との説もあるが)によると、清成は六月六日、まず角筈に住むよつやの五郎兵衛を尋ね、いろいろと世話をしてもらっている。
 八月一日、小田原から二万五千人、甲州から九千人を江戸に迎えて小城である江戸城と周辺は大混乱。大急ぎで関東領国の知行割りを八月十五日までに決定、旗本や御家人の屋敷も次第に与えられていった。この頃、区内に屋敷地を拝領した者の中、記録の残されているのを列挙すると、まず同年九月十八日、内藤清成が四谷・代々木・大久保・千駄ヶ谷にまたがる広大な地を拝領した。家康が現在の新宿御苑一帯を示し「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と云うので駿馬に跨がって走り、さしもの駿馬も遂に疲れ果てて死んでしまったという。この「駿馬塚」が内藤町の多武峰内藤神社にある。次いで翌年天正十九年十一月十八日、家康は鷹狩りの途次、喰違土橋(迎賓館の東側)あたりから杖の先で四谷南部鮫が橋・赤坂方面を指して伊賀者百四十人の知行地に与えた。これが縁で四谷と伊賀者との関係は幕末まで続いた。また、この年、大箪笥奉行榊原小兵衛配下の同心五十人は四谷箪笥町(現三栄町)から坂町にかけて、および大久保箪笥町(現西大久保、大久保通り)に組屋敷を、その他に知行地として東・西大久保村、戸塚村、源兵衛村、諏訪村を拝領している。関が原の合戦の翌年慶長六年(一六〇一)戦後処理が済むと、清成は二万千石に加増され、青山忠成とともに関東総奉行として新たに与力二十五騎と同心百人を預かり、与力を屋敷内に住まわせ、同心百人は大久保に組屋敷を拝領、これがのちの百人町である。
 ところで、寺の起立はその地域に住む住民の増加や豪族の寄進による場合が多い。したがって寺の分布や起立の時期を知ることによって地域の人口変動などを推定することができる。表は地域別の寺の起立と転入を家康の「入府以前」、「入府〜開幕」に分けて調べた数である。これによると、牛込・市谷・四谷は入府以前から程々に人が住んでいたが、入府直後から急激に人口が増し、淀橋は入府前後で変動がなく、これに較べて戸塚・落合は過疎であったものと思われる。


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