北条氏の作成した『小田原衆所領役帳(しょりょうやくちょう)』によると、徳川家康の関東入国以前、落合は小田原の北条氏に属する興津加賀守の領地であった。
ところで、この興津加賀守の先祖は静岡県の西部、浜名湖の東北部の気賀(けが)の豪族気賀維道(これみち)であった。やがて今川氏に仕え、興津の城主に取り立てられ、興津維道と改めた。時代は流れ、十四代正信に泰秋(やすあき)、親久(ちかひさ)、親行(ちかゆき)ら三人の子があった。長男泰秋の家系に小田原の北条氏に仕え、加賀守を名乗った親子がいる。落合を知行とした人物である。のち加賀守の子良信は家康に仕えて二百俵の旗本になるが、記録では加賀守の名は某(ぼう)とのみ書かれて不明である。何らかの差し支えがあったのであろう。ついで庄蔵が家を継ぎ、子がいないために家は断絶している。このような場合、弟とか他家から養子を迎えて家を継がせるのが普通であるが、弟七郎左衛門が不名誉な死を遂げたのが影響したものと思われる。七郎左衛門が同僚数人とともに遺恨のある米倉伝五郎宅を襲ったが、逆に切り殺されたというのである。
興津加賀守の直系の家が絶えたのが判明したので、泰秋の弟親久の家系を辿ってみよう。
次男親久の家系は今川氏に属していたが主家没落で家康に仕えることになり、忠能(ただよし)は妹の夫伊丹康勝(いたみやすかつ)(のち順斎)が大名に出世したために三○○石から一七三○石に加増され、その子忠行(ただゆき)は家を継ぐ時、弟宗能(むねよし)に五三○石を分与して一二○○石となった。従妹(いとこ)である伊丹康勝の娘と結婚、前途は明るく開けていた。ところがその子忠直(ただなお)の時、後ろ楯の伊丹家が断絶、一二○○石のまま幕末に到っている。菩提寺(ぼだいじ)は四谷西念寺(さいねんじ)。ご子孫は横浜在住。ちなみに、伊丹康勝は若いころ柏木村を知行、灌漑工事を手掛け、のち宇都宮釣天井事件の本多正純の糾弾に幕府の正使として山形に赴き、決断をもって処理、褒美に区内山伏町に一万五千坪余の屋敷を拝領、一万二千石の大名に出世した人物。だが、曾孫(ひまご)勝守(かつもり)が失神して自殺、伊丹家は断絶(この断絶は幕閣の陰謀との説もある)。そして山伏町の広大な屋敷は旗本屋敷に細分化された。
一方、分家した宗能の子能玄(よしはる)は本庄道芳(みちよし)の娘と結婚した。道芳はもと京都の八百屋といわれ、妹お玉(のち桂昌院(けいしょういん))が三代将軍家光の寵愛を受け、その子徳松が五代将軍綱吉(つなよし)となるにおよび一万石の大名に取り立てられている。能玄の子忠閭(ただとも)は御徒の頭(かちのかしら)(組屋敷は牛込中御徒町)、留守居、持弓組の頭(組屋敷は早稲田南町)、大目付と出世、二○三○石に加増され、越中守となり、八代将軍吉宗の次男田安宗武(たやすむねたけ)の御守役(おもりやく)を勤めている。妻は本庄宗資(むねすけ)(桂昌院の二歳下の弟、のち七万石)の娘。この家系は他の二人も大名家と縁戚を結ぶという名門である。また、幕末の当主忠美(ただよし)(号清覧(きよみ))は国学者として著名、その子健之助は挿花で名を挙げ、屋敷が現在の新宿厚生年金会館北側にあったが、二番町の日本テレビ東側に移っている。菩提寺は四谷法蔵寺。ご子孫が文京区におられる。
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