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了然尼(りょうねんに)は正保(しょうほう)三年(一六四六)に葛山(くずやま)長次郎の娘として生まれ、名をふさといった。父は武田信玄の孫にあたり、富士の大宮司葛山十郎義久の子という由緒ある家の出身、京都下京の泉涌寺(せんにゅうじ)前に住み、茶事を好み、古画の鑑定をしていたという。成長して美人で詩歌、書に優れたふさは宮中の東福門院に仕え、宿り木(やどりぎ)と称した。やがてふさは宮仕えを退き、人の薦めがあって医師松田晩翆と結婚、一男二女を生んだ。しかし、何故か二十七歳で離婚して剃髪(ていはつ)、名を了然元総尼と改め、一心に仏道を修行した。その後江戸に下り、白翁和尚に入門を懇請したが、美貌のゆえに許されなかった。そこで意を決した了然は火のしを焼き、これを顔面に当てて傷痕を作り、敢えて醜い顔にした。そして面皮の偈(めんぴのげ)(漢詩)を賦(ふ)し、和歌「いける世にすてゝやく身やうからまし終の薪とおもはざりせば」と詠んだ。決意の固いのを知った白翁和尚は入門を許し、惜しみなく仏道を教えた。やがて師白翁和尚は病に臥すようになり、天和(てんな)二年(一六八二)七月三日、死期を悟ると床に身を起こし、座したまま(一六九三)四十七歳で上落合村に泰雲寺を創建。正徳元年(一七一一)七月三日白翁道泰和尚の墓を境内に建て、積年の念願を果して安心した了然尼は二ヵ月後の九月十八日六十六歳で没した。寺には五代将軍綱吉の位牌(いはい)が安置され、寺宝として朱塗の牡丹(ぼたん)模様のある飯櫃(めしびつ)、葵(あおい)の紋が画かれた杓子(しゃくし)、葵と五七の桐の紋のある黒塗の長持があった。そして、宝暦十二年(一七六二)三月、十代将軍家治のこの辺りへの鷹狩りに御膳所となり、以後しばしば御膳所になったという。しかし、明治末年には無住になって荒れ果て、港区白金台三丁目の瑞聖寺に併合廃寺になり、現在了然尼の墓は同寺に移されている。また、寺の門および額「泰雲」は現在目黒区下目黒三丁目の海福寺にあり、特に門(四脚門(よつあしもん))は目黒区文化財に指定されている。これによっても泰雲寺が立派な寺であったことが知れよう。
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