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 江戸時代末期の絵図で目白台あたりを見ると大名
家の下屋敷などが並んでいる。その西端に幾分離れて広大な「酒井求次郎」の屋敷が目に付いた。調べると、現在の下落合二丁目東部、おとめ山公園と山手線に挟まれた台地に相当するらしく、二万坪近い。国持大名と思って探したが見当たらず、結局五千五百石の旗本であることが判明した。本邸は裏四番町(千代田区富士見二丁目衆議院宿舎辺り)約二千五百坪、他に大久保村(新宿区新宿七丁目、東戸山中学校敷地)約三千坪、それに下落合の二万坪と驚くべき広さである。この酒井家初代忠正(ただまさ)は老中を勤めた酒井忠世(ただよ)の弟、本家は大老や老中が輩出した姫路十五万石。区内矢来町に下屋敷のあった大老酒井忠勝(ただかつ)は従兄(いとこ)に当たり、一族に大名が五家ある名門に連なっている。ところで、酒井家が抱屋敷(農民から購入した屋敷地)を入手したのは、今からおよそ三百三十年前の元禄以前。以後幕末まで変わることはなかった。では、当時江戸を外(はず)れた辺鄙(へんぴ)な場所に敢えて何故屋敷を設けたのであろうか。答えは「素晴(すば)らしい眺望(ちょうぼう)であった。
 江戸を代表する文人、大田南畝(なんぼ)(蜀山人(しょくさんじん))は仲間と連れ立って十五夜の薄暮、百人町から落合におもむき、月を愛(め)でながら足の向くままあちこちと散策、竹林に酒を酌(く)みかわし、月明かりの素晴らしい景色を詩文に賦(ふ)している。この時の記録は彩色された絵を添えて纏められ、『望月帖』として今に残されている(穴八幡神社蔵)。

 時代は少し下るが、牛込や小日向(こひなた)に住んだ十方庵敬順(けいじゅん)『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』に度々落合周辺のことを書いている。その中に、酒井屋敷あたりからの眺めとして、南眼下に珍々亭(ちんちんてい)(藤稲荷脇の茶屋)、その遙か下に蛇行する神田上水(神田川)、田道を引かれる馬、柴を荷なう者、往きかう男女、すべてが小さく、まるで唐(から)の絵を見ているようだ。また、一枚岩と言われる奇岩について、田島橋の川下(かわしも)、面影橋(おもかげばし)の川上(かわかみ)の川中にあって長さ数十間、幅三間余、形は亀の甲に似ている。流れが左右に分かれ、岸から岩に飛び移り、岩上で酒宴を催すのも一興。季節になると早瀬に数千の鮎(あゆ)が下流より登り、笊(ざる)ですくい取ったり、釣をする者もいる。
 何という長閑(のどか)な田園風景! 夢のまた夢である。
 ちなみに、明治に入ると、酒井家の二万坪は近衛公爵(このえこうしゃく)家の所有になり、やがて大正六年、近衛町として一般に分譲されることになった。この時の近衛家当主はのちに総理になった近衛文麿(ふみまろ)である。

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