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 諏訪村はもと大久保村の内で、玉薬同心(たまぐすりどうしん)が家康から拝領した土地(玉 薬同心給地(きゅうち))であった。その後、同心二名が何らかの理由によって土地を召上げられ、その跡地は代官支配地になっている。江戸時代初期に村として独立、村内に諏訪社があるので諏訪村と名付けられ、今から百八十年程前の文政八年の記録によると、家数十七軒と小さな村であった。ほぼ現在の新宿区高田馬場一丁目に相当する。

 諏訪神社が創建されたのは、由緒によると極めて古く、およそ千百八十年前に小野篁(おののたかむら)(歌人・武人)によって大国主命(おおくにぬしのみこと)(大黒)、事代主命(ことしろぬしのみこと)(恵比須(えびす))を祀ったことに始まるという。二十年程して、在原業平(ありはらのなりひら)が妻と共に東国へ下った時、二人はこのあたりで道に迷って分かれてしまい、一夜を大木の下で過ごし、夫は妻を思い、妻は夫を慕い、思いが神に通じたのか、夜が明けると二人は諏訪の森で逢うことができ、森内のすぐ近くにある杉の大木下に休んでいたのであった。これに因んで「思いの森」「恋の森」と名付けられたという。現在、社殿の西側に周囲三抱え、高さ四メートル余の杉の枯れた株がある。およそ二百年ほど前の紀行文『遊歴雑記』に「在原の業平の卿(きょう)手植の杉というあり、太さ三抱へ余り根より上一丈四五尺にして、枝夥(おびただ)しく四方へなだれ上に延たる立樹は半枯たり、この樹に注連(しめ)を張りて崇め置きぬ」と書かれている。当時は半枯木から若芽が出て葉を繁らせていたが、今は厚い表皮が剥がれ、枯れ果てている。宮司さんのお話では上部が朽ちて隣家に倒れ落ちるのを恐れて数年前に丈を縮めたとのこと。この樹齢千年以上と思われる古木は歴史の古さを物語っている。境内には古い石造物がいくつかあり、中でも「逆修供養塔(ぎゃくしゅうくようとう)」(一六五四年)、「賽神(さうのかみ)碑」(一六八二年、区文化財)、「庚申塔(こうしんとう)」(一六八八年)は元禄以前のものである。神社の境内は五千百坪余と広く、別当玄国寺の敷地もこの中に含まれている。この外、九百坪が玉薬同心たちから寄進されている。

 天保七年(一八三六)刊行の『江戸名所図会(ずえ)』「諏訪谷村、諏訪明神社」を見ると、門前に馬留めの広場、門を入ると石鳥居(現在は石段上左手に東面)、左手に手洗い(手洗石は当時のまま)、石段を上って右手に鐘楼(しょうろう)(現在の社務所あたり)、神楽殿(かぐらでん)。立派な社殿があり、前に石灯籠(石段下に移動)、社殿左手の杉大木の下に石碑らしきものが幾つか見られ、周辺は杉の大木が生い茂る諏訪の森である。左(西側)の坂を下ると聖天堂(今はなし)、玄国寺と並んでいる。その左手、手前に大きな弁天池、中島に弁天が祀られている。池に右手から小川が流れ込み、北の谷を流れる(馬尿(ばにょう)川)。現在、この小川は暗渠(あんきょ)になり戸塚特別出張所の前から神田川に注いでいる。諏訪通り南側は田圃であるが、明治初年に軍用地になって射撃場が造られ、明治十五年十一月に明治天皇が開場式に臨まれ、その時神社に神酒と鴨を献納された。境内に「明治天皇射的砲術天覧所阯碑(あとひ)」がある。かつての田圃跡は埋立てられ、現在団地群、都立戸山公園に変わっている。

 なお、筆者はこの記事を書くに当たり神社を尋ねた処、明治四十二年生、九十三歳、矍鑠(かくしゃく)としておられる前宮司村岡賢一氏に色々のご教示、および周辺を歩いて昔の様子を具(つぶさ)に説明して頂くことができました。厚くお礼申しあげます。

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『江戸名所図会』「諏訪神社」天保7年(1836)
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