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 区内西新宿二丁目の熊野神社はもと熊野十二所権現または十二社といわれ、紀州の熊野十二所の神を祀った。
 応永(一三九四〜一四二八年)のころ、鈴木九郎は紀州の藤代を出て諸国を流浪し、やがて中野の里に住んだ。九郎は鈴木三郎重家(源義経に従い、奥州に下って戦死)の子孫、熊野権現が産土神(うぶすながみ)であったので自宅近くの丘に小祠(ほこら)を建て若一王子を祀った。ある時、九郎は葛西(かさい)の市に出掛け、飼っていた痩馬(やせうま)を売って一貫文を得、帰路浅草の観音に参詣、感ずるところがあってこの銭すべてを奉納し、空手で家に戻った。観音のご利益のせいか、以後家は繁昌して中野長者と呼ばれるようになった。そして、改めて社殿を再建して熊野十二所の神を勧請(かんじょう)し、田畑を寄進した。時代は下って寛文七年(一六六七)玉 川上水から神田上水への助水堀が造られる時および同十年松平和泉守に用地を無償で提供したため幕府は日光の宮大工に命じて社殿を修復している。以後、周辺に屋敷を持つ大名たちは神社の祭礼に寄付を怠ることがなかったという。享保(きょうほう)年間(一七一六〜一七三六年)九郎の創建した中野の成願寺が別 当として管理することとなった。
 ところで、由緒について、紀州から熊野権現を奉戴して角筈に来たのは渡辺与兵衛であるという説もある。渡辺家は代々角筈村の名主を勤め、熊野十二社権現に関する文書をはじめ多くの古文書が現在に残されている。
 また、慶長十七年(一六一二)伊丹播磨守(いたみはりまのかみ)によって二つの溜池が神社の西側に造られた。南側の池を「上の池」(南北百二十六間、東西は南で八間、北で二十六間ほど)、北側を「下の池」(南北五十間、東西七、八間)といい、湧き水に恵まれ、のちには助水堀によって旱魃(かんばつ)にも涸(か)れることがなかったという。殊に高さ三丈(九メートル)におよぶ大滝があり、江戸時代も末期になると郊外への物見遊山の流行によって池畔(ちはん)に掛茶屋が建並ぶようになった。明治になると「池畔みな茶亭にして欄に倚(よ)り水に臨み、あるいは瀑泉に浴してもって遊息すべし。酒果 は勿論何らの飲食も拍掌指命すれば立ちどころに弁ず。その大なるものには温泉の旅館千登利、西洋料理寒香園あり。瀑泉は三四ケ所。」とある。昭和三十年代まで賑(にぎ)わっていた。現在、上の池跡は神社の南西側、十二社通 りを隔てた窪地にあたり、かつての池畔は細道となって辿ることができる。ただし、池内であった場所は十二社天然温泉ビル、後楽園新宿ビル、三省堂ビルなどが立ち並んで池の片鱗さえ見いだすことはできない。
 いま、神社には嘉永四年(一八五一)建立の中野宝仙寺の僧負笈(ふきゅう)道人および『江戸繁昌記』の著者寺門(てらかど)静軒撰文になる「十二社碑」、文政三年(一八二〇)大田南畝(なんぼ)(蜀山人(しょくさんじん))の銘文を刻んだ「水鉢」、それに「七人役者図絵馬」「式三番奉納額」が新宿区文化財として残されている。なお、南畝の「水鉢」銘文「熊野三山 十二叢(そう)祠 洋々神徳 監於斯池」から十二社(じゅうにしゃ)を十二社(じゅうにそう)と読むようになったという説がある。
 神社の例大祭は毎年九月中旬に行われ、今年は二十一、二十二日である。

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十二社の池(幕末、フランス士官ブリュネのスケッチ)
『新宿歴史博物館常設展示図録』より

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