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 戸塚村は富塚といわれていたが、江戸時代初期に戸塚村・源兵衛村・諏訪谷村に分村し、やがて戸塚村は上戸塚村と下戸塚村に分かれた。およそ現在の区内西早稲田と高田馬場の範囲に相当する。
 ところで戸塚村の名主は代々中村家が勤めており、同家には村政や地域に関する貴重な史料が多数残され、昭和四十二年、新宿区に寄託、区立新宿歴史博物館で『中村家文書(もんじょ)』として見ることができる。以下、この文書により話を進めることにしよう。なお、当文書の書かれた頃の名主中村家の支配範囲は、高田馬場一・二丁目の西部、高田馬場三・四丁目および西早稲田三丁目のごく一部(大久保新田)である。
 戸塚村の農民の数は表に示すように、最小三一軒から最大六〇軒、人口一四八人から二八〇人と極端に増減している。その理由は、幕末になると農民の負担が急増したためと思われる。村が負担する仕事として、将軍の鷹狩(たかが)りの際の人足および必要物資の提供・千駄 ヶ谷塩硝(えんしょう)蔵の警備および手伝・神田上水土手の草刈り・銃隊稽古・小滝橋際の木戸詰番があり、この他に代官領(幕府直轄地)・玉 薬同心給地・増上寺領・自証院領の四つに支配され、年貢は勿論であるが、それぞれの雑役も勤めなければならなかった。その上に文久元年(一八六一)の場合、家数三一軒、一四八人、うち壮年男子四五人のみで農作業の他に上記の負担を勤めなければならなかったのである。八代将軍吉宗の享保(きょうほう)二一年(一七三六)には、家数六〇軒、二八〇人、うち七〇人は他所から抱えた使用人と裕福であったが、七〇年後の文化三年(一八〇六)には四一軒、一九八人、うち使用人は二人に減り、逆に他所に奉公に出た者が二七人となっている。これに較べ、村の範囲を正確に特定できないが、現在の人口が一万人を超えているのは確実である。
 動乱期の明治維新に入ると、村内の観音寺は経済的に窮迫して無住寺となったが、明治四年に下落合の薬王院住職が兼務、檀家らの努力によってことなきを得た。また、西早稲田三丁目(大久保新田)にあった夾山寺(かっさんじ)は、明治四年の台風で本堂が大破したが、檀家一六軒と少なく再建の目途がたたないため、同七年に廃寺して吉祥寺(きちじょうじ)に合併したいと願いを出している。一方、村の鎮守である諏訪神社では、明治四年に屋根の葺(ふ)き替えや壁の塗り替えなどの大修理が行われ、氏子(うじこ)である当村は名主中村甚右衛門をはじめ五〇名が寄進をしている。明治新政府の神道を国教とし、仏教排撃の影響をもろに受けたためであった。

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「戸塚村絵図」堀江家文書 東京都立大学図書館蔵

戸塚村家数・人口一覧
年
家数
人口(男・女)
享保21年(1736)
60軒
280人
寛政6年(1794)
49軒
−
文化3年(1806)10月
41軒
198人
文政9年(1826)8月
43軒
−
文政10年(1827)
31軒
−
天保13年(1842)3月
52軒
−
天保13年(1842)9月
31軒
173人(男90、女83)
嘉永4年(1851)3月
34軒
184人(男85、女99)
嘉永7年(1854)10月
47軒
−
文久元年(1861)7月
31軒
148人(男78、女70)
元治元年(1864)11月
57軒
270人(男149、女121)
慶応2年(1866)7月
36軒
200人(男107、女93)

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